大阪府高槻市富田町にあるカフェコモンズで「時間」のワークショップをさせていただきました。その際発表したレジメを転載します。
6/21 「時間」のワークショップ
◆はじめに 時間と「時間」
自分の時間が止まってしまったという感覚を持ったことがあるでしょうか。あるいは、逆に自分の時間が動きだしたという感覚があるでしょうか。自分の時間というとき、それは単に何もしなくていい時間のことではなく、自分のなかで必要な何かがおこっている時間のことをいうのではないでしょうか。自分の時間が動くというときの時間は、自分の外にあって数えられる量的な時間ではなく、自分の内に関わる質的な時間ではないでしょうか。
面白いことに自分の外側の量的な時間への意識が強くなればなるほど、自分の内側の質的な時間の動きは止まってしまいます。あるいは意思をもって、やらなければいけないと思うことがあればあるほど、質的な時間の動きは止まってしまいます。逆に、質的な時間が動き出すと、数えられる時間を忘れてそのことに没頭してしまうこともあります。
自分を外側から管理支配する時間に対して、自分の内側の質的な時間、プロセスとしての時間に鍵過去をつけて「時間」と表現することにします。
◆なぜ「時間」を取り扱うのか
僕は臨床心理学科という心理カウセリングを勉強する学科に入りましたが、治療者と患者という上下関係や誰かを「患者」にして治療を目的にすることは、逆に人の自然な変化や回復を停滞させているところがあるのではないかと思うようになりました。また社会適応して、働けるようになればそれでいいのかという疑問もありました。
回復とは何か。どのように回復していけるのか。上下関係ではなく、水平な関係の人同士の関わりで、「治療」ではない人の回復や変化はどうおこるのか。そしてどうやって生きていけばいいのか。そういうことを知りたいと思い、探ってきました。そこでたどり着いたのが「時間」ということになります。
治療や回復の勉強をしなくても、自分の「時間」が止まったり、動いたりしたときのことを思いだしてみること、人の「時間」が止まったり動いたりした話しを聞くこと、自分の「時間」に焦点を合わせて感じたり話したりすることで、「時間」は刺激を受けて動きだします。自分はただ自分の「時間」の動かし方を知ればいいのだと思います。それをずっと続けていくことで生きていく世界や感じられる世界は更新されていくと思います。
僕が心理学科にいた頃、そこで卒論を書く人はみんな自分の問題をテーマにしているように思えました。なぜ自分の問題をテーマにするのか。実はそれが自分の最も関心のあることだからだと思います。自分の根源的な関心、興味は自分の底にある、普段は感じられないような根源的な痛みや苦しみからきているようです。そしてその根源的な関心に応答することで、人は力を引き出され、卒論のような、大きい課題を終えることも可能になります。鶴見俊輔はこのような自分にとっての根源的な問いを生きることを「親問題」を生きることだとし、自分を抑え、環境に埋没して場当たりに適応することを「子問題」に生きることだとしました。
「親問題」に生きることは自分の根源的な問いを生きることです。たとえ経済的に自立をしたとしても、ただ場当たりの適応をしただけでは自分は回復していきません。回復とは回復を続けることであり、それは自分にとっての根源的な問いである「親問題」に対して、生涯をかけて応答していくことであり、それが自分にとっての充実と古い自分の更新をもたらします。そして「親問題」への応答と、自分の「時間」を動かしていくことはとても密接な関係があります。
◆これまでのワークショップで気づいたこと
誰かの「時間」が止まったことや動いていたことを聞くと、自分の「時間」が止まったり、動いていたときの感覚が触発され、感じられます。「時間」の感覚が活性化すると、「時間」を自分に引き寄せることがよりやりやすくなります。「時間」は意識してやるものというよりは、ある感覚にゆだねることです。
「時間」には色々な深さがあります。何もかもが順調にいっているとき、自分自身の「時間」はあまり動かなくても気にならないときがあります。逆に今までの生活が成り立たなくなったとき、表層の「時間」が止まったように感じられる時を経て、自分の深い「時間」を動かざるを得なくなることもあります。表層の「時間」が止まったからこそ、深く自分を生きられるようになることもあり、一概にどんなときも「時間」が動けばいいということではないようです。
◆ワーク 時間についてのエピソードを書いて紹介する。
自分の時間が止まっていたと感じたとき、あるいは自分の時間が動きだしたと感じたときのエピソードを教えてください。お配りするA4用紙に記入していただければと思います。