人間の変化と回復について考えてきた。どうやって回復していけるのか。
しかし、一つ前の記事を書いてみて、自分が今知りたいのは回復のあり方ではなさそうだなという感じがしてきた。
実際にどう回復するか、どう変化しうるかよりも、自分は納得するということを求めていると思った。
回復を求めれば、回復していない状態を否定してしまう。そしてそのことにより余計な停滞がはいる。だから回復を直接に求めないということはこれまで何度も書いてもきた。しかし、それでもやはりそれが結局は回復を目的としているのなら強迫性は自分に対し否定的に影響しているだろう。
自分は今、強迫的なものを打ち消す理解を求めている。だからどうやって回復するかより、どうやって世界のありようをより深く納得し、引き受けることができるようになるかが重要だと思う。
昨日、自分の仕事に納得ができず、つまらない仕事だと思い、不満をもちながらやっているという人の話しを聞いた。
間接的な話しなので、実際や実態は知らないが、これについて思うことは、人がそのように不満をもって、屈辱的な気持ちをもっているのに、なおそこにとどまらざるを得ないということ。
人はそんなに簡単に変われるものではないというのが僕の今の理解になっている。それまでに作られてきた強力な殻があり、それが壊れるという契機を得ないと変われない。人は自分自身では変われない。
そして変わったとして、回復したとして、それが何なのかと思うようにもなっている。どれだけ回復したか、という競争でもしているのか。
「メタコミュケーション力」がアップしたり、やさしくなったりしたとしても、それもまた自分がどれだけ有用になったかという視点から判断しているのならば、競争社会の原理を相変わらず取り入れているだけだと思う。
不遇に生き、不遇に死ぬ。それを避けれるか避けれないかは、究極的には、自分の努力ではない。たまたま通り魔に刺されて死ぬかもしれないのだから。
表面上何を獲得し何を達成したとしても、本質的にはどこにもいかない。何も変わらない。その地点にいるということを納得するかどうかというだけなのではないかと思う。