降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

6/1南区DIY読書会発表原稿 奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』12章

◆概要

ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。

 

◆今回の発表
第12章 ないことの火急なる不穏〜第13章のさわり
・同級生の男の子が性の意識を持ち、女の子に触りはじめたエピソードの紹介。(男性器)が「ない」ことへの態度。

 

 デカルトは自我が認識する主体であることを出発点として、その対象としてものや世界が存在すると考えた。それに対してハイデガーは、人間は普段ものを用いて何かをするのであって、もの自体に特段の注意を払わない。ものが壊れた時などにはじめて、対象としての当のものに注意を向ける。その意味で、ものとは道具的な存在であり、自我をそうした道具連関の中にいる「世界-内-存在」と捉える事で、ハイデガーデカルト的な「主観/客観」図式をひっくり返したとされる。


筆者は同級生の男の子がハイデガー存在論に近づいていたのではないかと想像し、当然のものが「ない」ことは、それまでの安住していた世界を壊し、思考を深めるための、切迫した火急の事態ではないかと指摘する。

 

筆者はインドネシア放浪の際につけていた日記を参照し、都市を離れ、川を上るにつれてトイレの形が次第に簡素化され、なくなっていくことに気づく。人々は川の水を料理や洗濯に使い、トイレは川にしていた。筆者も川の中での排便を経験し、自分の旅が人間の原初のあり方へ時間を遡っていく旅のように感じた。

 

カルペンティエルの小説『失われた足跡』の紹介
未開人の楽器の探索を委ねられた音楽家は愛人をつれジャングルの奥に向かうが途中で愛人にうんざりする。そこに現れた現地の若い女ロサリオと主人公は惹かれ合うようになり、ロサリオは自分のことを<あなたの女>と呼び、主人公と時間を過ごし睦むことに全存在を没入させる。主人公は始原の暮らしで精力と創造力をみなぎらせ作曲活動に没頭するようになるが、作曲のための紙とインクを求めにまた都会に帰る。都会から帰ると始原の地への入り口は川の増水により閉ざされており、主人公は金鉱採掘人から<あなたの女>が別の男の女になり、妊娠していることを伝えられる。

 

筆者は、レヴィ=ストロースを引き合いに出し、始原の地から主人公を隔てるものとは「歴史」であったと指摘する。始原の地は円環から外れ、直線となった時間としての「歴史」を、そしてそれに伴う進歩や発展を拒絶するものである。筆者は人類学者は常にすでに始原の地と現代世界に引き裂かれた存在であると指摘する。始原の地は歴史の外部にある。

 

・不在の三分類 
<物理的な不在>・・・トイレがないなど。

<精神的な不在>・・・反省心が「ない」こと。それに伴ってか、プナンでは精神病理が見当たらない。一方、同じボルネオ島にすむ焼畑民には<ラオラオ>と<マウノ>という精神病理がある。ラオラオは真性の狂気である後者マウノの移行期である。マウノになると突然暴れて人を傷つけたり、毎日石を積み上げたりということをしたりする。
 なぜ精神病理が見当たらないのか。筆者は、プナン社会には心の病を言い表す言葉がなく、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりする時空間がないと指摘する。また別の誰かがいつも傍にいるし、気にしてくれている。思い悩む暇がないほど、個が集団に溶けこんでいる。朝三時であろうがヒゲイノシシが採れれば強制的にたたき起こされ、食べさされる。

<言語的な不在>
「おはよう」「こんにちは」など交感言語使用がない。感謝をのべるような言葉もほとんどない。プナンには「薬指」の呼び名がない。筆者は日本では鎌倉時代に「薬師指」と呼ばれていたものが江戸時代に「薬指」と呼ばれるようになった説を紹介している。薬を水にとくのにもちいられたのが由来だともいわれる。中国語では、薬指は「無名指(むめいし)」と呼ばれる。

 

プナン語では「水」と「川」の違いはない。ただ洪水にはlenyap(ロニャップ)という語が与えられている。また現在はインドネシア・マレーシア語から道(jalan ジャラン)という言葉を借用しているが、プナンにはもともと「道」という言葉はなかった。藪を切り開いでできるものは「跡」(uban ウバン)であり道ではなかった。「跡」は熱帯雨林のなかですぐに消えていく。プナンにとって「道」はもっぱら木材伐採会社や政府がつくった道のことを指す。

 

プナンは森の民にも関わらず、結構森のなかで迷うらしい。森で迷って木の下で夜を明かして翌朝探しにきたブニという男に見つけられたという事例、バヤとラセンも迷って2日帰らず、狩猟キャンプの人が総出で探索にあたり発見された。プナンは東西南北の概念を持たない。自分の場所は、川の上流と下流(水の流れ)、山の上と下(場所の高低)によって位置どりし、同じくその組み合わせによって特定する。プナンはその後、目標に対して直線的に最短距離を通るように動く。そのため、変化の大きい地形では迷うとみられる。
 

◆感想

薬指に対して呼ぶ名がそもそも無いというのが大変興味深いです。以前もその話題は出ましたが、もう一度。

 

身体教育研究所の稽古で、薬指に集注をして身体を動かすということをやりました。親指や中指などは、意識の直接の制止が効いていて、コントロールはしやすいですが、止まった、機械的な動きをしてしまいます。そして身体の繋がりは切れてしまいがちです。ところが、薬指の感覚が浮かび上がるようにすると、それが変わります。

 

薬指はコントロールが効きにくい指で、かすかに震えているような指です。その感覚が浮かび上がるようにすると、そもそもコントロールしようという気が失せます、コントロールしようとすると動きにくく、もどかしい感じがします。しかし、その感覚を浮かび上がらせると、逆に震える薬指の感覚が全身にうつっていくような感じになりました。薬指に集注すると、身体のつながりは戻り、安定しました。

 

 

意識の自動的な支配をどう打ち消すかが、もともとある自律的な動きをよびもどす方法であると思います。野口裕之さんは、人間のなかで自然と退化した部分とは、意識によって社会化されていない場所であり、その部分こそ身体であるというふうに言われていたように思います。後の部分は、社会化され、構造化されているので、管理統制が効いた軍隊のようなものなのでしょう。

 

薬指に名前をつけない(背景化する)ということは、薬指がそもそももっている、意識的な統制を打ち消す力を最大限に生かす合理的な設定だと思います。プナンの文化上、それが自然にそうなっているということに感銘を受けました。

 

また東西南北がなく、山の位置、川の流れで位置を特定するというのも、言語の支配、意識の支配を打ち消すやり方だと思います。プナンにとって固定化された場所は無いのであって、移動の必要の上でだけ、位置どりや方向性が生まれるのです。

 

「所有しない」ということがここでも徹底されています。所有とは固定化であり、世界を固定化することは自らを固定化することに繋がっているように思います。つまり自分とはこれであるというもの、アイデンティティが決定され、常に侵食される自分のアイデンティティの肯定性を高める終わりなき闘いに投げ込まれるのです。

 

ギリシア神話のプロメテウスは火(意識・言語による認識)をもたらしましたが、岩山に釘付けられ、毎日オオワシに内臓をついばまれます。しかし内臓は毎日復活し、プロメテウスは永遠にその苦痛を味わうのです。プロメテウスの拷問は、世界を固定化し、過去から未来へ一直線に向かう時間を発生させ、歴史を抱え込みながら生きる近代以降の人たちのあり方と相似しているように思えます。

 

そう考えれば、そこで精神病理が生まれるのも当たり前でしょうし、本当にプナンに精神病理が全く無いのかはわかりませんが、見当たらないほど少ないというのも納得がいきます。

 

プナンにとっては、森に少々迷うよりも、世界を規定し、言語的な支配を自分にもたらさないほうが重要なのだと思います。上とか下とか、水の流れとか、その都度、必要なものだけを生み出し、そして無に帰す。それはアマゾンのピダハン族が持ちのいい容器を作る技術はあっても使い捨ての容器しか使用しないことと同じような理屈なのではないかと思います。ピダハンもまた方角や右左を持たず、川に近い方の手、といったような表現をするそうです。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

さて、最近は自分にどのような「状態」を呼び起こすか、そしてその状態を保持するかということが重要なのではないかなという実感が強まってきました。プナンが薬指に名前つけないのもそれによってある「状態」を維持するためだと思います。つまりこれがいいという「状態」が先にあり、その「状態」を維持するのに適するあり方が自然に作り出されていくのだと思います。

 

13章ができなかったのですが、ちょっとだけさわりをいうと、プナンは野生の動物に対して礼儀を守ることにものすごく気を遣っていて、筆者がある鳥を間違ってニワトリと読んでしまうと、そこにいたプナンに必死でそれは違うと否定されたそうです。狩られてきた野生の鳥獣には、忌み名があり、どうしても呼ばなけれその忌み名で呼ばれます。

 

これもまた、僕は何かの「状態」を呼び起こすものだと思いました。プナンは野生のものに対して、飼育しているものを下に見ています。それはあたかも「聖」と「俗」のようです。聖なるものを俗なるものにたとえたり、そうみなしたりすることは許されません。

 

これは飼い慣らされたもの=意識的にコントロールされるものに対する位置づけをしているのだと僕には思えます。つまり自然のものを操作できるものにするということが禁忌として認識されているのです。現代人が意識の細部まで構造化され支配下におかれていくのに対して、プナンは、いわば体の構造化、精神の構造化を最小限におさえる意思を持っているのだと思えるのです。