降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『ノンちゃん雲に乗る』をもう少し

『ノンちゃん雲に乗る』で、雲の世界は死者たちの世界として描かれていると思った。この世界で望んでいたことを実現する世界が雲の世界のようだった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

そういえば、荒井由実の「ひこうき雲」も子どもの魂が空にのぼっていくという歌だったなと思いだした。ネットを検索してみると、小学校の同級生が筋ジストロフィーで、高校生の時、彼が亡くなったということ。

 


ひこうき雲 - 荒井由実(松任谷由実)

 

ひこうき雲〜ユーミンの才能を世に知らしめるきっかけとなった“稀代の名曲”の誕生エピソード〜|TAP the DAY|TAP the POP

 

戦争で多くの人が死んだ。子どもたちも死んだ。ノンちゃんの物語は死んでいったものたちを慰める物語なのだと思う。水たまりに映る雲の世界に落ちて、そして戻ってきたノンちゃんは、死んだ子どもたちの体験の代弁者だ。

 

死んだ子どもたちは、あちらの世界ではやさしいおじいさんと出会い、のびのびとしたままに受け止められて生きている。こちらの世界のつまらない制約などに縛られることなく。子どもたちを失って残された大人たちはその話しを聞いて慰められただろう。

 

子どもたちは欺瞞を抱え込む大人になる前に死んだのかもしれない。最後におじいさんはノンちゃんにうまい嘘をつけと試練を与える。ノンちゃんは嘘をつけなかった。次に誰に嘘をついてはダメだと教えられたのかと問われる。そしてノンちゃんは誰に言われたのでもなく、自分で嘘をつくのが嫌だと思っていたのだと気づく。

 

おじいさんは、えんま帳を持っていたからえんまということになるのだろうか。ノンちゃんの家族や経験の全てを聞いたのだから、やっていることはえんまそのものだ。

 

もし言われるままに嘘をついたら、ノンちゃんは帰れなかったのかもしれない。が、多分最後に悪役のようなふりをしたえんまは、ノンちゃんにノンちゃん自身も気づいていなかった純粋さがあることを教えたのだろうという気がする。もともと、ノンちゃんを試してどうなるか、ことの顛末はわかっていて。

 

赤毛のアン』で、アンがある程度大きくなった時に、マリラからなぜアンが前のように喋らなくなったのかとたずねられる場面があった。アンは、大切なことは人に言わずに自分のなかにそっととっておくほうがいいように思うようなったとこたえていたように思う。

 

大人になるとは、「現実」と「現実でないこと」を分けられるようになり、前者を本当のこと、価値のあること、意味のあることだと信じ、後者を実際には価値のない絵空事だと信じるようになることではないかと思う。

 

だがその「現実」の世界というのは、言葉というまがい物のフィルムを通したあとの、干からびて死んだ世界なのだと思う。アンもすでに決まってしまった過去のリアリティを自分に寄せつけることにどれだけ抵抗したことだろうか。

 

僕は、今は言えると思う。嘘なのは言葉を通して見えるその「現実」の世界なのだと。嘘なのは、干からびていて、全てのものの価値も自分がなんであるかも決定されてしまった世界なのだと。子どもたちはそれに耐えきれない。だからその秘密、その時のリアリティをそのままに心の奥にそっと置いておくことは、子どもたちが生き残る手段であり、人が自然としての倫理をもつすべでもあるのだと思う。

 

気持ちに嘘のない純粋なノンちゃんの姿は、戦時下の抑圧のなかで人々が本来はそうありたかった姿であるだろう。いや、そう望む前に抑圧され、忘れてしまっていた姿なのかもしれない。それをこの物語が思い出させてくれたのではないかと思う。

 

わんわん泣きながら、この世界の裏、もう一つの世界への入り口であるひょうたん池に落ちてしまったノンちゃんのストーリーは、「となりのトトロ」のメイの話しともほぼ同じだなと気づく。メイもお姉さんであるさつきに今までにない強い拒絶をされ、繋がりを失ってしまった。池には小さな女の子の靴が浮かんでいた。

 

表と裏。表の世界で叶わなかったことが裏の世界では叶う。裏の世界から見れば、表の世界は本当の世界だろうか。裏の世界が本当で、表の世界が幻なのではないだろうか。両者は補いあい、存在している。

 

読者は表の世界にいる。しかし裏の世界のことを本当は知っている。それは抑圧されており、意識上にはのぼらない。しかし、身体はそれを感じている。表の世界だけが「現実」として認識できる。

 

ノンちゃんが生きて戻ってくるのは、この物語という表の世界。長吉が死んで、お兄さんが戻ってきたこの表の物語の世界。

 

その世界があるということは、もう一つの世界がある。ノンちゃんがひょうたん池に落ちて帰ってこない世界。戦時中に多くの人が「現実」として体験した世界だ。人はあの世とこの世の境界のようなところに行って、表と裏の世界をひっくり返そうとする。それが石井桃子さんが書いたこの物語なのだと思う。

 

はてしない物語』を読んでいた男の子が、物語の主人公がのぞいた鏡に自分自身がうつっていて物語のなかの主人公アトレイユとともに驚いたように、物語とは裏の世界を映すひょうたん池だ。

 

ノンちゃんが生きている物語が書かれているということは、ノンちゃんは死んだのだ。そして長吉のかわりにお兄さんが死んで星になっている。トトロのメイも死んでしまっている。お母さんの病気は回復せずお母さんは死んでしまっている。たぶん、それが人々における「現実」だ。もしそうでなければ、物語は求められ、書かれる必要がないのだから。

 

物語のハッピーエンドが白々しいと思うのは、影の世界の話しを最後の最後で、筆者が光の世界の話しに反転しているからだと思う。だからそういうときは、複眼的にみたらいいと思う。反転されていない影の世界、書かれていない裏の世界を本当として受け取ればいい。そして表に出ている世界をその裏の世界のとむらいだととらえてみる。すると、光の世界の軽さは消えて、報われない切なる願いが感じられるから。

 

 

 

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

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