降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ある活動のやりとり 吟味の重要性について

ある活動を立ち上げようとしていて、やりとりをしています。

 

僕はちいさなものですが、今まで色々活動をはじめたり、運営したりしてきて、これが大事なんかなとか、これをやってたらあかんのやなとか、今も現在進行形で遅々としたものですが、そういうものも自分なりに積み重ねてきました。

 

その一つ、新しい活動をはじめる時に、本当に何がやりたいのか、本当に面白いと思っていることは何なのかということを吟味せず、明確化せずに場当たりに動きだすと、結果として大きなロスと少ない学びがやってくるという認識があります。

 

この吟味について、複数人でチャットでやりとりしたのですが、吟味の重要性についてはよく伝わってないような印象を受けました。リアルタイムではちょっと伝えきれなかったことを改めて整理してみました。

 

最近はそういうやりとりをブログにも転載してみています。また書き方が変わるので、もしこのブログで取り扱っているテーマに関心を持ってくれているのなら、こういうやりとりを見てもらうのもいいかもしれないと思っています。↓

 

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◆これからの活動について 自分の意図と提案

→自分が現状をどう受け取っているか
・現時点ではやれることが列挙されている状態。とりあえずやれること、やりやすそうなことも出ているけれど、やれそうな企画にただちにやる→やった感じでまた何かやれそうなことをやるというサイクルにはいるパターンになることがこういう場合に多いと思います。

 

けれど、それは危険で、趣旨がどんどん薄まり、場当たり的になり、建前としての意義や意味はあっても、実感の感覚としてはコアメンバーが自分たちがやっている意義や意味が感じられなくなると思います。

 

僕自身は、少人数のものに過ぎないのですが、色々場を持って運営したり、それがダメになっていった体験、立て直していく体験をしています(現在も進行形ですが。)。そのなかで、最初に動機と意図をきちんと煮詰めるために多くの時間を使ってもそれは全く無駄ではなく、むしろ大体こんな感じでいけるだろうと、なんとなく始めることが結局は膨大なロスや防げたはずのトラブルにつながったりするという実感はより強まっています。

 

はじめてみるまではわからず、活動するなかで気づいていくことはありますが、はじめに考えられることは考え、はっきりさせることははっきりさせる作業が十分でないのに、「とりあえずやってみよう」というのは、子どもとか、ゼロから始めてこれからいっぱい失敗して学ぶ若者だったらいいですが、ある程度他にやることもあり、大事なことをいくつも抱えている大人においては、投げやりに近い態度だと思います。

 

本当に大切なものと考えているなら、まず明確化できることはしておくことが重要で、それをすることによって、運営のことだけでなく、活動における学びや気づきもまるで違ったものになると思っています。

 

→吟味の意義について
・昨晩、僕が上手く伝えられなかったこと、ピンときてもらえなかったことの一つは、吟味の重要性だったと思います。僕の吟味の重要性の理解はソクラテス田中正造の研究者であり、自身も教育実践を行っていた教育哲学者林竹二の考えによっています。

 

林は被差別部落定時制など、一筋縄では行かない学校に、人間とは何か、生きるとは何かというテーマで出張授業に行き、学生と対峙しました。林の授業で学生たちの表情が明らかに変わり、人格に近いところまで変容していく様子は写真集(※1)などになって出版もされています。

 

林の授業の方法は、ソクラテスの問答法を基盤としており、ソクラテスが市民に質問したように、薄っぺらな知識や自分に根付かない認識、その場限りの思いつきなどが林の提供する授業や直接の問いによって剥がれていきます。

 

フレイレ省察(※2)とも通じることですが、とりあえず出てくることを剥いだ後に本当のもの、創造的なものが現れるという考えです。みんなで思いついた意見を言い合って、色々意見が出てよかったね、というあり方にはほとんど意味はないと林は指摘します。林は何かを学んだことの唯一の証は、自分が変わったということであり、学習の結果が一片の知識であるならば、それは何も学ばなかったということだと言います。そして本当に現実を変えるもの、自分を変えるものは、自分の表面についているもの、手軽に用立てられて思考停止できるものが吟味によって剥がれた後に現れてくると考えるのです。

大昔のソクラテスとか、教育者の机上の空論だろうなと感じられるかもしれませんが、僕は林は本当に人を変えてきたし、その考え方は妥当だと思っています。僕は心理学科にいましたが、実際性、実践性を考えたらカウンセリングはほんの小さな範囲を担当する一技法にすぎないと思い、そこから出ました。僕にとっては現実や自分を実際に変える実践性、実際性が最重要であり、それをずっと追求していってそれが現在の活動に繋がっています。フレイレもそうですが、林も空論など言っていないと思っています。(ただ世間はどんどん忘れていって、林などいなかったみたいに教育が語られています。世間やアカデミズムにおいては流行り廃りがあって、林の実践も文学史的なデータとしては残っても、彼が到達したような実践的知性、知見は賽の河原の石のようにその後には積み重ならないもののようです。)

次回の話しあいでは、コンセプトを確立する、芯を作ったらいいと思うというふうに言いました。また本当に自分が面白いと思うことは何か(自分の核心的関心・切実な関心・根源的な問い)ということを活動趣旨に乗せることが重要だと思うと言いました。コンセプト、活動の芯をつくることは吟味に当たります。大体こんなぐらい、こんなイメージ、とぼやっとしているものを明確化する作業は吟味を伴います。玉ねぎの表皮を剥ぐように、吟味することが重要です。剥ぐ作業をしてからはじめて、ようやくに、いいもの、妥当なものが出てくるのです。(・・・と言っても現実感はなかなか感じられないかもしれませんが・・。)

この吟味という作業は、高度なセンスがいるものではなく、地味にやるものです。しかし、自分との一致度は高めている必要があります。もし、ある楽曲に対して、一度聞いてみて、大して関心がないなら、自分の部屋で日常で聞くでしょうか。本当にいいと思っているもの、あるいはその可能性を持つ限られたものしか聞かないのではないでしょうか。自分が本当に好きだと思うもの、本当にいいと思うものに対して、人間は妥協のない吟味をかけているものだと思います。ところが、あることが仕事だったり、義務的な勉強が関わることだったりすると、人は充実の最大化にではなく、あっさりと苦痛の最小化に向かいます。しんどくなくて、楽であればいい、となるのです。自分が自分に騙されて、手軽なものが実際にいいように、あたかも自分が求めているかのように思いこめるのです。ですが、後者は抑圧なのであり、持続的な活動や動機を生みません。むしろ拡散的になります。

今回の活動は、持続的な活動、長期的な視野を持った活動として位置づけられていると思います。ですので、人間が自然に持っている抑圧や思考停止の傾向の表皮を剥いでいく吟味の作業が必要だと思います。それはシンプルです。本当の本当にそれが面白いと感じているのか、もし違うならどんなものなら本当に自分が一致して面白いと思えるのか、ということを確認していくだけだからです。何も高度なものはいらないですが、ただ面白さにおいて妥協しないという学びの本質だけは自分においておくことが必要だと思っています。

 

※1 学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

 

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

学ぶこと変わること―写真集・教育の再生をもとめて (1978年)

 

 

※2 フレイレは、対話を単に相互変容、相互更新をおこすものとしてだけでなく、世界を変革させる言葉「真の言葉」に近づく手段であるとします。フレイレは、対話には行動と省察の二つの次元があり、その相互作用、循環によって「真の言葉」が現れてくるといいます。 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

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林竹二について過去のブログでも取り扱っています。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

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