降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「環境」ではなく躍動性に対する応答としての倫理を

環境とは、自分を除いた周りのことなのだと思います。ところが自分というのは関係性なので、自分を除いた世界という時点で、この言葉を用いた問いはおかしくなります。

 

自分は環境に対して、外からの働きかけ手ということになります。人間がいなければ環境は健全だという思考になるのは、環境という言葉を批判なく受け入れた時点で必然です。あらかじめ含まれている前提が結論になるのです。

 

日本の原発の話しもそうですが、第二次世界大戦で毒ガスが使われ、何百年も人が住めなくなった地域があるそうです。

 

「環境問題」を考えるとき、自分が持っている潜在的な資源が減る、利用できなくなる、そんな世界はいやだ、そんなところで生きていたくないという動機があります。

 

当然の気持ちだろうと思います。でもその動機だけではだめなのは、既にその最低限のことさえ奪われた人たちがいるということです。既に完治しない被害を受けた人たちがいます。そうなりたくないね、という思考は、そのつもりがなくても、その人たちを受け止めることもスルーする思考です。

 

イリイチは、生命という概念が近代において本来の躍動性(aliveness)から所有する生命(a life)へと変化したことを指摘します。躍動性は異なるお互いが与え合って高まるものです。一方、所有する生命という思考は、そのような与え合いではなく、独立して存在する生命です。関係性としての生命ではなく、関係性以前に存在する生命観です。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

関係性が本質なのに、関係性は無視され、個々の閉じた「生命」が本質とされる生命観への移行。そこに傲慢と無責任が生まれるのも当然でしょう。生命を個体に属するものと考えるところでは、世界に対する責任は放棄されます。生命を数えられるものとするのもイリイチ的な観点からは非倫理的でしょう。

 

躍動性に生命の本質をみるとき、見捨てられる人は少なくなると思います。自分だけで幸せを高められるという嘘が破綻するからです。躍動性は常に他者を必要とし、躍動性の高い世界を必要とします。閉じた牢獄のような、自分の部屋だけを充実させていけば幸せになるという嘘はそこでは成り立ちません。

 

世界の躍動性に責任をもつということが、倫理なのであると僕は思います。ですので、僕は「環境問題」というものは、実際には倫理の問題であると思います。世界の躍動性に責任をもつということが取り戻される必要があるのだと思うのです。