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ここという閉塞から逸脱していくための考察

5/7南区DIY読書会発表原稿 奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』第10章〜第11章

2019/5/7 南区DIY研究室読書会


奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』


概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。


◆今回の発表

第10章 学校に行かない子どもたち

第11章 アナキズム以前のアナキズムを取り扱います。


 マレー世界では都市部を除き、今日でも食事は手を使ってされるが、プナンはスプーンを用いる。これはもともと道具を使って食事をしていたことの名残だと考えられる。プナンの主食はサゴヤシの澱粉であり、中華鍋にサゴ澱粉を入れ、水を加え熱してアメ状化させたものを食べていた。数人から10人のメンバーで共食し、ピックと呼ばれる箸でサゴ澱粉をくるくるまいて、汁物につけて食べる。


 プナンは、1980年代になると森の中での生活をやめ、川沿いの地に定住ないし半定住して焼畑農業をはじめると、サゴ澱粉に加えて米を食べるようになった。次第に米食の割合が多くなっているが食事のスタイルは引き継がれている。


 食事の際は一般的に人々はあまり多くを語らず、あたり障りのない話題や出来事や噂の情報交換がされる。身近におこった出来事に対する感じ方や見方が居合わせたメンバーに共有される。共食で築かれる社会的絆の最たるものが親子の親密な関係であると筆者はいう。


 プナンの父母と子どもたちは食事の機会を含めて、できるだけ一緒にいて行動を共にしようとする。親は実子であれ養子であれ子を慈しんで保護しようとする。プナン社会では子が親の膝もとで生きてゆくすべをゆっくり学び、巣立ち後も親の近くで暮らす傾向がある。


 人類学者マーシャル・サーリンズは、狩猟採集民社会の労働時間は近代産業社会よりずっと少なく、そこは余暇の多い「豊かな社会(affuluent  society)」であると捉え直した。


 子どもたちは、狩猟キャンプに同行することで、薪の選定や火のつけ方、肉のさばき方などをしだいに覚えていく。幼子や学童期の子どもたちはブラブラと戯れて遊んでいることも多い。女の子たちは時々食器洗いや洗濯、料理の手伝いをするが男の子たちは十代半ばでようやく3、40キロのヒゲイノシシを運ぶのを手伝ったりするようになる。


 プラガ川の上流域に小学校が建てられたのは1938年。そこにはプナンだけでなく、近隣の焼畑民クニャーも通っている。この30年でそこを卒業したプナンは20人そこそこであるが、町の中学校に通って卒業したプナンは筆者の知る限り皆無である。一方、クニャーはたくさんの中卒者、高卒者、大卒者を出している。


 プナンを優遇する州政府の政策にも関わらず、プナンは学校に定着しない。貧しくていけないのでも、働かなければいけないのでもなく、行きたくないから行かない。子どもたちは高学年にちかづくにつれ、学校を放棄する。しかし、親たちはそれを憂慮することはない。


 明治政府は1892年の「学制」により教育の義務教育化を図った。明治期末から大正初年には就学率は90%に達していたとされる。1950年代の教科書内容重視の教育から「詰め込み教育」批判がはじまり、1990年には「ゆとり教育」が提唱されるようになる。


 フーコーは、学校が監獄や病院と並んで、近代的な権力の典型であることを指摘し、教師の眼差し、試験制度など生徒を規格化するための「規律=訓練」のテクノロジーの中で大衆教育が出現したととらえた。


 マレーシア政府は、教育支援金制度における支援金の大幅な増額でプナンを釣ろうとしたが、通学率にあわせて支援金に傾斜をつけるやり方は、プナンの得たものは全てを等分する道徳原則からは考えられないものであり、反発を招いた。


 プナンのハンターの中心世代は40歳代である。筆者が若者たちが森の狩猟に興味を示さないこと、それによって狩猟が成り立たなくなることを仄めかしながらハンターの反応を聞くと、「大したことはない」「おそらく怖いのだろう」などと、若者の狩猟離れを気にかけている様子はなかった。プナンは、将来に備えるのではなく、その都度の状況にあわせてなんとかなるだろうと考える傾向にあると筆者はいう。

 

 筆者は小学校の校長と話したが、校長は教育を自明視し、プナンのあり方を嘆いていた。


 筆者はプナンの振る舞いをフランスの人類学者ピエール・クラストが紹介するパラグアイの先住民グアラニと重ね、プナンに見られるのは人間に不幸をもたらす世界の不完全さへの拒絶であり、それは森の民ならではの直感からのものではないかと推測する。グアラニは自分たちに不幸や悪をもたらしているものの本質から逃れるためにアマゾン河の下流域を放浪し続けていた。グアラニは、病気や不条理、歪みや矛盾、不幸を内含したり、帰結したりしてしまう<一>から成る近代の枠組みではなく、不幸の廃絶された<多>から成る神話的世界を求望していた。


第11章 アナキズム以前のアナキズム

 鶴見俊輔アナキズムを権力による強制なしに人間が助け合って生きてゆくことを理想とする思想であると定義している。

 

 18世紀までにヨーロッパでは専制政治体制が広く行われるようになった。その統治に不満を持った市民は革命をおこしたが、その結果専制政治がかたちを変えて戻ってきただけだった。そのような経緯のもと、共産主義国家の樹立を成し遂げる人々が現れた一方で、国家なき自律的コミュニズムの理想を抱く人々が活動するようになった。プルードンバクーニンクロポトキンなどの思想と活動によって国家統治の不要論を唱えるようになったのがアナキストであった。アナキズム共産主義とは一線を画する思想・運動としてヨーロッパに根をはることになった。


 森元斎は、ここ数百年で広がった<飼いならされる/飼いならす>とは異なる仕方で、他者と共同体と、そして自然と対峙してきた人間の共同体に目を向けるべきではと主張する。


 筆者は森元斎がモース、レヴィ=ストロース、グレーバーによりながら文化人類学に接近するのは、アナキズムを理解するためにはアナキズム以前のアナキズムをつかみとることが必要だと考えているからではないかと推測し、その社会がプナンの共同体であると考える。


 プナンは住んでいる地域を基準として東プナンと西プナンに分けられる。東プナンは1980年代に行われるようになった商業的な森林伐採に対して、抵抗運動をはじめた。スイス人探検家ブルーノ・マンサーノはプナンの窮状を世界に発信し、プナンは「闘う先住民」として世界に知れ渡った。東プナンは州政府や企業と折衝を進め、協定を有利に進めるために識字率を高め、大卒者を何人も輩出し、州政府や企業に対抗できる一勢力となった。


 一方で西プナンは、州政府によって遊動生活を放棄した上で、川沿いの沖積地に移住させられ、焼畑稲作の農法を身につけた後も、森の中での生活スタイルをほとんど変えることがなかった。西プナンは彼らが「王国」と呼ぶ国家のやり方を独自の文化の枠組みの中に無意識的に組み入れることで、これまで実質的にほとんど国家と関わることなく暮らしてきた。


 筆者はプナンがアナキズム以前を生きているのならば、その暮らしの軸になっているのは贈与交換の仕組みだとする。狩猟採集されたもの、その他の材は基本的には全て共同所有する。財は獲得に関わったメンバーで均等に分配される。プナンには「貸す/借りる」という言葉がそもそもない。何かモノを欲する時は「ちょうだい」という言い回しを用い、持つものは持たないものに惜しみなく分け与えられなければならない。モノを欲した側はふつう何の言葉も返さない。与えられた側もまた誰かに求められれば分け与えることが期待される。

 

プナンはケチであってはならない。独占しようとする欲望を集団の規範は認めない。それは共同体内に広く深く浸透している。


 筆者はプナンにおける贈与交換の仕組みを経済学者シルビオ・ゲゼルの「消え去る貨幣」になぞらえる。その制度において、お金が老化し消え去るように、プナンにおけモノも共同体をぐるぐる循環したり、外にいったり、朽ちたり壊れたりでやがて消えてしまう。


 石倉敏明は農作業の二次産物である藁で作られた神像が朽ちて自然にかえることを取り上げ、自然界に内在する価値の創出と滅却の循環の体系を人間社会に組み込むという意味で、ゲゼルの価値解体の家庭の理論に通じるものとして評価した。


 筆者はプナンがモノを共同体内で使いまわすことは、劣化を促しているのだとする。モノやお金も瞬く間に流れ、消えていく。これは資本の蓄積や増殖の原理とは本源的に異なる。


 プナンの贈与交換の仕組みのなかで特筆すべきは、ビッグ・マン(大きな男 lake jaau)の存在。共同体のなかで一番みすぼらしい男がリーダーである。彼は持ったものを次から次へと分け与えるため、何も持たなくなってしまう。すると尊敬が集まり、彼のもとにお金やモノが集まってくる。すると彼は以前にもまして分け与える。ビッグ・マンが私腹を肥やしたり、権力を握ったりしようとすると、人望は薄れ、皆が離れていく。ビッグ・マンであり続けるためには、「ケチであってはならない」という金言を体現し続けなければならない。


 筆者はビッグ・マンは悠々自適の役職などではなく、常に人々の監視の眼差しに晒され、人々にコントロールされるため、それはそれでかなりしんどいだろうと推測している。


 プナンにとって、統治権力や経済を含め、外部から入り込んでくる諸制度や力は、何らかのかたちで全て、自分たちのシステムのなかに組み替えられて取り込まれる。国家や政府とは何か、ということは日常においてほとんど意識されない。


 プナンと国家の直接接触は1960年代以降のプナンの定住化政策にまで遡る。将来的な森林開発を視野に入れたイギリス直轄統治政府の施策を受けてサラワク州政府はプナンを森から川沿いの沖積地に定住させた。それは強制的な移住ではなく、担当行政官による訪問と話しあいによって緩やかに進められた。州政府はプナンの定住のための土地を用意し、近隣の定住焼畑民の農法を授け、家屋を建てるための支援などを行った。行政は友好的だったため、プナンは当時の行政官を「バケ(友)」と呼ぶ。


 プナンの居住地はサラワク州の行政の中心地から離れているため、一種の「制外の地」である。森の周囲にはロギング・ロードが縦横無尽に張り巡らされている。プナンは森林開発や水力ダム開発によって得られた賠償金で車を買うこともある。彼らは無免許だが、プナンの地域で乗りまわすことは何の問題もない。プナンは道に出てきた獣をわざと轢き殺して食用にすることもある。


 プナンの地で選挙が行われる場合、プナンは一番多くお金をくれる人に投票する。ビッグ・マンが決まるのと同じく、惜しみなく分け与えるものが評価されるため。筆者が持ち込む財布も共有の財とみなされて使われる。筆者はプナンが鶴見俊輔の定義通り、権力による強制なしに人々が助け合ってくらす思想を生きているととらえている。

 

◆感想

 プナンが学校制度に対して自律的でいられるのは、マレーシア政府の管理がまだ緩やかだということがあると思います。だんだんと囲い込まれるように、真綿で首を締められるようにさまざな制度をつくり管理を徹底させていけば、やがてプナンも学校に行かざるを得なくなるだろうと思えます。

 

日本も産業構造が変わっていき、第一次産業がその地位を落とし、会社に就職してお金を稼がなければ生きていけなくなるまでは、漁師の子どもなどは別に学校にいくことなど問題視されなかったそうです。

 

なので僕がこの本から受け取り、ヒントとしたいことは、だんだんに近代社会に呑み込まれていく過程にあるプナンから、もしある環境を作り上げたなら、その環境における人はどのような感性や感覚を持ちうるだろうか、あるいは文化を持ちうるだろうかということです。

 

 もし生きることの自律性(衣食住・養生(医療)・学び)を近代社会の管理から再度取り戻したなら、そこにおける人間関係はどのようなものか、生きることはどのように感じられるかということをこのプナンのあり方から想像することができるのではないかと思うのです。

 

上妻世海さんたちは、現代人が消費者化した自らの身体や思考を逸脱してあり方を「制作」として提示しています。自給やDIYはつまり思考や身体そのものを変えていく時に必要な媒体であるといえるかと思います。

 

 アナキズムについては、プナンの贈与交換の仕組みが結果としてモノやお金の劣化を促しているという視点が新鮮でした。

 

気前よく分け与えることが何よりの道徳律として、それが全てにおいて徹底されているとこうなるのかという印象です。

 

お金があったところでその場で消尽されるので、財の運用のようなこともできない(すぐ破綻する)ために、共同体の本質は非常に変わりにくいのだと思いました。