降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

ジャンル難民ふりかえり 『制作へ』のパラダイムのほうへはどう行けるだろうか?

時間のワークショップ、ジャンル難民の集まりをはじめてみて4ヶ月。

 

活動をどう更新していくか。相変わらずの自分の考えなしをあらためていかないとなと思う。

 

去年のジャンル難民の集まりから派生した時間のワークショップは独立してやることになっていった。エスコーラでやっているジャンル難民の集まりは、1回目は多くの人が来たけれど、その後継続的に自分の研究をすすめて発表するというかたちにはなかなかなっていない。

 

そもそもジャンル難民で何をやりたかったのかというと、自分自身の研究や探究の発表の場を作ることプラス、同じように自分の研究や探究を持っている人が集まってお互いに刺激をうるような場を作りたかった。けれど後者はこのままでは現実化していく感じがない。

 

集まりの開催日は僕と会場の都合だけで決めていた。が、僕の都合ではあいにくいのかもしれない。一年間の予定を出すわけではなく、単発で僕の任意で日程を決め毎回やっていく感じでは来にくいだろうと思う。

 

研究をするというコアメンバーを先に集め、そのコアメンバーで日程を決めるのはどうだろうかと思う。たとえば10人ぐらいに直接声をかけ、その上で日程を決める。または月に1回の単発1年ぐらいの計画を立てて一緒にやる人を求める。

 

みたいな感じでやっていこうか・・。

 

火曜日のDIY読書会で、上妻世海(こうづませかい)さんのインタビューを取り扱った。ざっくり僕の言葉で言うならば、上妻さんはこれまでの学問が自分(主体)を変わらないものとして位置づけ、そして対象を扱ってきたのに対して、自分がその対象と関わり、主体と客体が未分化の状態になって、主体が変わっていくという考え方だと理解している。

 

『制作へ』解題インタビュー

http://ekrits.jp/2018/10/2776/

 

DIYの意義というのもまさにそこだ。結局、自分自身が変わっていくためには、普段の自分のモードと違う状態にはいり、そこでおこるプロセスに応答していくことが必要だと思う。出来上がったものを使うだけなのは消費者として便利だが、それでは自分がそこにかかわることによって変容するプロセスがおきない。

 

社会のなかで他者によって作り上げられた自分から抜け出ていくためには、変容のプロセスを自分に取り戻すことが必要だ。知識を得たり、頭を切り替え(たつもりにな)るだけでは自分は変わっていない。そこには実際のプロセスを経ることが必要だ。単に体験するということではなく、自分にある状態をひきおこしながら体験をするということで変容のプロセスがおこる。

 

当事者研究や上妻さんたちの活動など、主体を自分に取り戻していくことを基本とするムードはだんだんと出てきていると思う。この時代のムードとどうつながり、いかしていけるのか。自分の今までのやり方は今までのやり方。また別のやり方を見つけていく必要がある。