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ここという閉塞から逸脱していくための考察

3/26 南区DIY読書会 発表原稿 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」第六章〜

2019/3/26 南区DIY研究室読書会

奥野克己『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 

概要:ボルネオの狩猟採集民プナン(西プナン)はマレーシア・サラクワ州政府に属し、自動車などの近代的な道具に触れながらも、狩猟採集をベースとした自分たちの文化を維持していた。彼らの子どもは学校も行きたくなければ行かない。結婚はパートナーがいる状態をさすだけで、次々と別のパートナーに変わることも珍しくない。子どもは実子と養子が入り混じる場合が多い。プナンでは、ありがとうに該当する言葉はなく、また反省するという概念がない。

 

◆今回の発表
第六章、第七章から発表します。プナンの性や結婚のあり方について。また私的所有を認めない「共有主義」について。所有という壁をもうけないことは、精神性にどういう影響をもたらしているのか、など。

 

◆第六章
 伝達機能を持たないが、一体感を生み出すような社会的な機能を持つ話し言葉を用いることを交感言語使用とよぶ。プナンには、「おはよう」「こんにちは」「元気ですか」「さようなら」といった定型句がなく、交感言語使用がほとんどない。
 →筆者は人々が一緒に行動し、密に接して暮らしていると一体感を生むためにかわす言葉はほとんど必要ないのではないかと推測している。

 

 男の子たちは第二次性徴の直前まで性器を露出することに抵抗を覚えることはない。対して女の子たちは、3、4歳の頃から衣服を身につける。少女たちは大人と同じように、衣服をつけたまま水浴びをする。衣服を身につけるように仕向けるのは、おとなたちであり、とりわけ母親や女の親の親族である。
 →筆者は、おとなの女たちが男たちの性的な視線から女の子たちを守ろうとしているのかもしれないと推測している。

 

 プナンの男女は、第二次性徴を迎えるとほどなくして、性愛の相手を探し始める。男があらかじめ約束しておいた女の蚊帳の中に夜中に忍び込むことを含む通い婚、夜這いはポーカカップ(pekakap)と呼ばれる。プナンの男の子たちは10歳ごろになるまでは両親と同じ蚊帳で寝る。その後、少年たちだけの蚊帳に移動して寝るようになる。

 

 女の家族は、夜這いの事実を知っているか、気づいている。男が夜這いを行う夜の前の昼間に女の住まいにやって来て、家族と談笑した後に、女がその夜、当の男が夜這いに来ることを半ば公然と承諾するからである。男を迎えることを承諾した女と同じ蚊帳に寝ている姉妹たちは遠慮して、その夜は父母や既に結婚している兄弟姉妹の蚊帳にもぐりこむ。

 

 プナンは男女ともにマスターベーションをしない。同性愛がおこなわれている証拠はない。また、アナルセックス、集団セックス、レイプがおこなわれている証拠もない。夢精には負の意味が与えられていて、夢精したり、セックスの夢をみたときは狩猟に行っても獲物が獲れなかった理、何か良くないことがおこると考えられている。

 

 プナンにおいて結婚とは、男女の性愛関係が維持・継承されている期間のことであり、性愛関係を解くことが離婚である。その間、パートナーは排他的に相手と性的関係を持つ権利がある。結婚に際して周りの焼畑民の慣習をまねて贈り物がおくられることはないわけではないが、結婚式が行われることは稀である。

 

 子どもができること、または養子が迎えられることで「結婚」が印づけられる。父母になった男女は、子どもの性別を基準にして「女の子のお父さん」「女の子のお母さん」「男の子のお父さん」「男の子のお母さん」と互いをよびあう。このことは1組の男女が公に対して「結婚」状態にあることを示すことになる。

 

 プナンは、一般に、性成熟直後から生涯を閉じるまでの間、第二いとこを超えたインセストの範囲で、1人以上の異性と「結婚」する。その「結婚」は、ある時間をパートナー同士で共有し、その後互いに「飽きた」ら、次のパートナーに乗り換えるという類のものである。つまり共時的には一夫一婦であるが、通時的にはパートナーをどんどん替えていくというのが、プナンの「結婚」に他ならない。

 

 プナンには貸し借りの概念がない。貸してというふうに言われたとしてもそれはあげたと同然の意味であり、お金を貸しても返ってこない。

 

 大庭健によれば、所有とは、他者による承認を前提とし、「私」であることと「排他的」であることの関係に関わる人間的な概念である。また私たちは、自分が生きている・自分がいるという「存在」の事実を、自分「の」生命・能力等々をもっている、というかたちで「所有」の事実に回収してしまう思考回路からいまだ自由ではない。

 

 プナン社会では、他者および共同体が、何らかの財の個による排他的所有を承認しないのだと言える。言い換えれば、財を個人が所有するということを互いに主張し認め合うことがない。そこでは財を、排他的に、個人の意のままに使うという考え方それ自体が存在しない。

 

 狩猟から農耕へ 倫理観

中沢新一 すべての財産は、物質性をもたない「無」の領域から「有」の世界に、贈り物としてやってくる。だから、その出現も、喪失も、神と人の間のデリケートな関係に左右された。すべてが変化しやすく繊細で、壊れやすく、安定した財産は少ないかわりに、人間には自然に対する深い倫理観が成長できた。
 農業は「死への恐れ」を反映してい流。繊細な倫理の関係によらなければ、気まぐれな贈与の霊は、豊かな富を与えることを拒否するかもしれないし、財産は貯蔵のきくかたちを持っていない。それに恐れをいだく人々のなかから、農業は発達したのだ。

 

 

 プナンは幼少時から個人的な所有欲を制限される。子どもが与えられた食べものを独り占めしようとすると親に注意される。

 

 興味深いのは、分け与える対象が、たんにものだけではないという点である。プナンは、すべての人物に、あらゆる機械に参画することを認める。共有されることは、モノだけではない。年老いていても狩りについて行きたいと希望すればそれは認められ、分配も平等に行われる。能力の多寡や仕事量の多さと分配の量は関係がない。

 

 筆者が帰国する際、プナンの人々は誰もが寂しい、悲しい、と口々にいうようになる。筆者はそうした振る舞いにプナン特有の情動のあり方の妙を感じるという。酔いどれも子どももみんなが一斉に寂しい、悲しいと呟き出す。感情もまた共有されている。

 

 精神や感情は人間だけでなく動物にもあるというプナンの考え方を踏まえれば、彼らは動物に深い部分で共鳴し、死にゆく動物の思いに気づいて動物を殺害しているとも考えられる。また情愛は、男女のそれであれ、親子や養子縁組した親子のものだれ、共有されている。慈しみや憎しみなどの感情もまたつねに周囲に伝染し、共同所有されるとも言えると筆者はいう。

 

 プナンの共有主義によって、プナン社会には格差がない。また競合と選抜の原理をへて個人がその努力によって物質的・精神的幸せを獲得するということもないため、個人の持つ向上心や努力などもない。

 

◆感想
 文化的な共有主義によって、プナンは個人が蓄財するということはありません。それが向上心という言葉で表現される将来への強迫性も生まないということは興味深いです。想像するに、子どもだけの王国のようなところに行けば、自分のものなど全部取られてしまって、しばらくするとまあいいやとなりそうな気がします。将来への強迫というのが、人の精神にどれだけの負担をかけているのかと思います。

 もう一つ興味深かったのは、感情の共有ということです。釜ヶ崎で労働者の人たちが稼いだ自分のお金をすべてあげてしまうのが当然という感覚を思い出しました。その他、イリイチのアライブネスとサバイバルの話しも思いだしました。

 

以下、ブログからの引用です。

 

kurahate22.hatenablog.com

 
 片山博文氏は、イリイチの生命観批判の考えについて次のように述べています。

 

 彼は、制度的管理の対象と しての「生命」を「生き生きとしていること aliveness ではなく生存 survival に力点を置い ている」概念であると指摘する。これに対して、西洋におけるソクラテス以前、およびそれ 以後の哲学的伝統では、自然とは「生きていること―一つの生命 a life ではなく、生きてい ること alive―であり、一つの母体ないしは子宮のようなもの」であると考えられてきた。ところが近代とともに自然はそうした生気を失い、「自然の死」がもたらされる。彼によれば、 近代におけるこの「自然の死」が、「生命なるものが管理されるべき対象として、また人工知能のように製造されることさえ可能な対象として現れるような文化的空間」を生み出したのである。」 片山博文「ヴァンダナ・シヴァのコモンズ論における生命の概念について」https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180408082209.pdf?id=ART0010482472

 

「いのち」という言葉は残念ながらイリイチが批判するように、本来の躍動性(aliveness)を本質とする「いのち」ではなく、自意識としての主体が所有するものとしての生存(survival)のイメージが既に強くついてしまっているので、「いのち」を使うと誤解のほうが大きくなってしまうという危惧があり、僕は「時間」という言葉を使っています。

 

 aliveness(躍動性)の重要性は、survival(生存)としての個体に閉じたものではなく、周りの他者や環境に伝わるものであるところだと考えます。alivenessは個に閉じることはできないのです。そして個人だけでなく意識的な主体が所有することはできないと考えます。(集団であっても管理所有できると考えると簡単に抑圧的な全体主義になるでしょう。)

 

 時計がなかったころは、時間は太陽や月、星の動きや潮の満ち引き、動植物の変化などだったのではと思います。それは実態が伴う、なにかが実際に変化していくプロセスでした。その時、時間は変化するそれぞれのものの数だけあったと思います。

 

 そしてそれらは単にそれぞれに閉じた動きをしていたのではなく、それらそれぞれの「時間」が生き生きと動くこと、変化することによって、周りのものにalivenessを与えており、そのalivenessの重なりあい、響きあいとして一個の生きものは存在するのだと思います。

 

 閉じたsurvivalとして完結した生命というのは、虚偽なのであって、様々な他者が作り出す「時間」=生き生きとした躍動性=alivenessが重なり響きあった状態が生命の本質であるということなのだと思います。生き生きさの発生は、自己責任論的に一人で管理所有することもできませんし、集団が命令することもできません。ただそれぞれの「時間」が生き生きと動きうる状態を互いに模索することができるばかりでしょう。

 

 その生命観に移行した時、動物福祉は「人間がいい仕組み、妥当な仕組みを作り動物に提供してあげる」ような自意識中心主義のものではなく、生き生きとしたalivenessをもらうことを他者や環境に依存している存在であるそれぞれの個体、完結して閉じていない個体が、お互いのalivenessを回復させ、高めるために必要だからということになるでしょう。

 人間を含めた個々の個体は、他者や環境からもらう生き生きとしたaliveness、それぞれのものが変化していくプロセスである「時間」という生きた響きを与えあい、もらいあうものとして存在しているのだと思います。

 

 ここにおいて、倫理というものが、何に対してあるものなのかがはっきりしないでしょうか。倫理は閉じた生存(suravival)に対してあるのではなく、それぞれの存在がその響きに依存しあう、本来の意味である「いのち」であり、alivenessをもたらす生きたプロセス、今このとき動いている変化のプロセスである「時間」に対してあるものなのだと思います。