降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

お金をためて将来に備えなければならない倒錯

体制としては、3つの自給が自分たちのほうに引き寄せられるとき、人は自律的になりうると思います。食の自給、養生(医)の自給、学びの自給がないとき、たぶん感覚としては、生きるため(特に困ったとき)に必要なのは結局お金であり、それが稼ぐ場所だということになるだろうと思います。

 

そして結局生きるためにはお金が必要となると、老後や病気事故などのためにはいくら稼いでも十分ということはなくなります。将来に対しての貯金とはつまり、将来に対して「借金」を払っているのと同じことなのだと思います。そのように将来という際限ない負債に対して、利息と元本を払うための現在になるのだと思います。

 


『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 M・ムーア 記者会見

 

エンデの『モモ』を読むと感じられるように、お金を稼ぐ効率のことだけを価値とし、優先させると、精神はむしろより不安定になり、他者や世界に対する不信と不安を募らせていきます。

 

現在の自分と自分の周りにおこっているプロセスを十全に生きることが、人と人との間に関係性を育む必然を提供し、心身を健康にするのであれば、病気になることを恐れ、病気になるリスクを高める生活をしながら将来の準備をすることはどれほど倒錯的であるでしょうか。

 

www.huffingtonpost.jp

 

学びとは、閉じ、固定的になる傾向のある自意識が他者や世界との応答性をもっていくための認識の更新です。それを自分たちに引き寄せられず、外部に支配されているのなら、外部から植え付けられ、内面化された価値観にいつまでも影響されてしまいます。応答性は倫理性ともいえるもので、応答性を回復していくとき、閉じた自分の周囲だけよければいいという感覚は薄れていくだろうと思います。

 

文化とは、精神の隷従を終わらせ、他者や世界との応答性を回復していくためにあるものだと思います。奴隷として楽しむサーカスは気慰みにはなっても、世界の見え方、感じ方を変えていくものとしては不十分であると思います。

 

精神を隷従させるもの、人をして「〜せねば生きていけない」と強迫的にさせるもの、無理やり従事させられるものを打ち消していく仕組み。それが文化的な仕組みではないかと思います。自給もまた、自分たちで自分たちに必要なものを提供するということで、強迫的なもの、支配してくるものを打ち消すところに意義があるのだと考えています。