降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

書くことと同調について バイオハザード6のエイダ・ウォン

先日も、ゾンビものについてやりとりしていたのですが、ゾンビもの(アンデッドもの)の懐の深さは、あの世とこの世(の終わり)を同時に描けることにもあるのかなあと思いました。

 

さて吸血鬼などもアンデッドものに含まれると思いますが、かなり前に読んだ文章でアンデッドとは不死者というよりは、死に切れぬ者なのだというふうに書かれていたのを事あるごとに思い出します。

 

映画「野火」を観たとき、なぜ人はここまでして生きるのだと衝撃を受け、今までの自分の理解が成り立たなくなりました。やがて生きているとは死に切れないということなのだという理解になりました。生きものが生きる力とは死に切れない力であり、つまりは反発力なのだというのが僕の理解です。

 

生きていくことが難しいと感じたとき、そこで頼れるものは自分のなかにある根源的な反発力であると思います。その根源的な反発力は自分という存在が晒された一番大きな実存的危機に対する反発であるようだと思っています。

 

その危機は意識の底に眠っているような、自覚しがたいものですが、常に自分の行動に影響を与えている文脈のようなものだと思います。何気なくやろうとすること、向かおうとすること、繰り返し選んでしまうこと、近づいてしまうこと、興味をもってしまうものがどこからきているのかと問い、そこに応答していくならば、だんだんとその輪郭が見え、そこに近づいていけるように思います。

 

いわゆる「自分のやりたいこと」みたいなことは、ニュートラルな、平地から現れた欲望ではなくて、自分という実存の根源的な痛み、苦しみに対する強い反発として現れていると思います。

 

ですので、生きづらさとは、その根源に近づく機会であるのだと思います。ただ実際的には苦しみたくもないのに苦しみから逃れられず、その状況のなかで何を頼りにしたら生きていけるのかを探っていった結果としてそこが見えてくるということなのだと思います。

 

自分の根源的な苦しみに対して応答することが、自分にとって最も活力と充溢を与えてくれるものであると思います。今の社会状況で苦しい人は、いわばさらに根を下にのばし、深層から水を得ざるを得ないのです。逆に深層から水を得ることができるようになると、自分を殺して場当たりの適応をするみたいなことをしなくてよくなるでしょう。ただ、そんな苦労は誰も自分からしたくないので、受難的なことがないとそういうことはあまり起こらないのだろうなと思います。

 

さて、ゾンビに話しを戻します。物語において死に切れないものとは、プロセスとしての「時間」が止まっているという理解ができます。

 

不死者たちは大体永遠というものに倦んでいます。目先の欲望、強い刺激に耽溺して一瞬の高揚を得て、狂気を解放しますが、そうせざるを得ないのは、永遠という止まった「時間」が苦しいからです。だから往往にして彼らは死ぬときに、「正気」に戻り、止まった「時間」から解放される安堵と救いを語ります。

 

生というのが死とは対極にある状態のように思えて、しかし実は生という状態にとどまること、縛りつけられることであるようにも思えます。つまり生もまたある種の止まった「時間」として存在しているように思えます。不死者たち、死に切れぬ者たちは、その止まった「時間」である生が極端化しただけの姿であり、地続きにある姿なのだと僕は思います。

 

一休にこんな歌があります。

 

有漏路(うろじ)より
  無漏路(むろじ)へ帰る一休み(ひとやすみ)
         雨ふらば降れ 風ふかば吹け

 

うろじとは煩悩のある世界、むろじとは悟りの世界、仏の世界であるとも言われているようですが、そこで一休は「帰る」といっています。帰ることは必然なのです。悟りを得ずとも死なばそこに戻る、と一休はいっているのではないでしょうか。

 

雨ふらば降れ、風ふかば吹けは、精神が死に切れないこのうろじの世界の理屈に反応するのをやめたということであり、言葉がもたらす未来に反応することを捨てたということが表現されているように思えます。

 

そして何より、生というひと時を本質的なものとみなさず、生とは一休みであり、むしろとどまりであるのだと喝破しているように思うのです。

 

さて、いつも前置きでエントリーが終わりそうになるのですが、本題に入ります。

 

上で書いてきたように、ゾンビもの(アンデッドもの)は、自分にとって考えを深められる触媒であるのですが、そんなに熱心にゾンビもの全てをチェックしているわけではなく、その場その場で出会ったものをみています。

 

バイオハザードもプレイしていませんでした。特にアクションゲームが好きというわけでもないし、ホラーやスプラッターが特別好きというわけでもなく、物語設定とか知れればいいという感じなのですが、YouTubeで映画みたいにゲームのシーンを編集してくれているものがあり、それを昨日は見入ってました。

 

youtu.be

 

エイダ・ウォンというキャラがいて、女スパイであり、主人公的存在であるレオンに心寄せる場面もありつつ、一筋縄ではいかない人物で、主人公たちを利用したり、時には助け、共闘したりします。

 

ルパン3世でいえば峰不二子的位置っぽいですが、不二子は裏切ったりしても結局敵方につかまってルパンに助けてもらうみたいな自立度が弱いキャラですが、エイダのほうはむしろ状況の全体を把握し、動かしている存在であって、レオンはそれに翻弄され、利用されるほうです。

 

出てくるのが美男美女ばっかりの世界というのはあるのですが、女性の描かれ方として興味をもちました。ここまで自立している女性キャラは今まで寡聞にして知らなかったです。「マッドマックス3怒りのデスロード」でも、フェミニズム的観点を取り入れたといっても、マックスの実行力や構想力、説得に感化され導かれて、自分たちのあり方を達成する女性というような感じがあると思いますが、エイダは知力も精神的タフさも戦闘能力も備え、動いている状況をコントロールし、レオンより自立度が高い存在です。

 

感情的に暴発するとか、失敗を嘆くとか、状況に苛立つとかがなく、リスクを引き受けながら状況を淡々と自分の能力でひらいていき、めくるめく出来事を冷めたユーモアで皮肉り締める安定感。福本伸行の「アカギ」のような感じに近いのかなと思いました。

 

エイダがどうなっているのか、書きながら近づいてみたいなと思います。先日、自分がどのように書いているのかを訊かれることがあったのですが、あらためて言葉にしてみるなら、自分を想定されたある状況に投げこんで体験していることを眺め、なぞっているような感じです。

 

田房永子さんが、痴漢か何かの精神状態に自分がなることでその内面状況を描くというようなことをちらっとどこかで書かれていたように記憶しているのですが、僕もそういうことをやっているのかもしれません。その状況に自分を投げこみ、その同調状態から見えたことをなぞり、言葉に置き換えています。所詮自分なので、実際の相手がわかるわけではないのですが、少なくともその同調状態から見える世界は、自分にとっても新鮮です。

 

手がかりになるものから、その状態に入っていきます。

 

エイダには不動の意思があります。ある種の復讐を達成しようとするような、冷たく、ブレをもたない意思。自分が死ぬリスクを冒すこともためらわない。つまりそんなリスクを冒してでもやることでなければ、そもそも割りに合わないような飢餓をもっている。

 

その飢餓はエイダの傷ともいえるようなものでもある。かつての無防備な自分を圧倒し、元に戻ることなど決してない喪失を与えたものがある。その喪失の大きさはエイダを耐え難い恥辱の地の底に張りつけ続ける。喪失の圧倒的な大きさ、重圧がエイダを押さえ続けている。

 

力への意思、いや破壊への意思。エイダは絶望しており、その絶望の深さに比すれば、自分自身の死や破壊も取るに足らない。自分を救わなかったこの世界、救いようのない愚かな人間たちへの深い憎しみ。自分になしうる最も巨大な復讐こそこの自分のリアリティに応答するものとして割りにあう。生きていく意味はそのあるべき復讐を遂げることのみにある。

 

・・・そんな感じが、このキャラの言動や振る舞いの基調としてあるような感じがします。