降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

研究の民主化としての当事者研究

当事者研究の意義で一つ僕が重要だと思うのは、決められた手順や決められた様式にそってないものは、信用しません、全て却下みたいな世界に支配され切られなくていいところだなと思います。

 

精神に間することでもアンケートをとって、あてはまる、ちょっと当てはまる、あまり当てはまらない、みたいに擬似的であっても数値化して体裁が整って無いと認めませんみたいな世界が一部あってもいいかもしれません。

 

が、当事者的には自分の苦しみの仕組みを自分たちでさっさと確かめていくのに際して、得た仮説的知見に対して、権威や世間の承認はいらないですし、別にそれを客観的な真実だと教科書に載せたいわけでもないわけです。

 

(しかし、客観的、科学的な手法と権威が決める手法でないと認めないというのは、「生産者(プロ)」によって作られ、画一化された情報を多数の消費者に一律に提供するという前提にあわせたものなのかなと思いました。)

 

仮説は実際に自分の状況を変えていくかという実際性に基づいています。そして、自分に通じても他人に通じないみたいなことは、実際に自分で研究して吟味して確かめていくなかで必然的にわかってくるわけです。

 

むしろそういうトレーニングもできず、自分で調べたり確かめず、単に情報の受け取り手(消費者)になることで、あれが健康にいいと言われれば度を越して摂取したり、あっちの本に書かれればそれをし、こっちの本に書かれればこれをするけれどあっちとこっちの統合性はない、みたいな脈絡のない行動をする人を生む大きな弊害を社会に与えているともお思えます。

 

資本主義社会的には、専門家を作って、あとは限られた自分の担当範囲以外は、何もわからなくていい消費者のほうが権益を維持し、利益を得るには都合がいいのかと思います。

 

本来なら、自分で探究し確かめる主体性が学びの前提であり、個人が自分として生きていく基軸となるあり方なのに、その体験、そのプロセスを奪われるような社会環境にされているなあと思います。

 

探究や学びの主体性は、既存の制度からは逸脱的になりやすいものなので、むしろ既存の制度にはまった専門家には都合が悪いということもあるのでしょうか。

 

権威のある人に言われたことを自分の感覚とは関係なく熱意をもって従う、熱心な隷従としての「主体性」ではなく、確かめていくやり方を含めて自分のなかにおこったこと、おこっていることを起点にした学びの主体性はあまり問われないようですし、問われたところでスローガン的な呼びかけとその場限りのシンポジウムで終わりみたいなことになってるのではないかなと思ってしまいます。

 

当事者研究界隈では、幻聴にお茶を出したりして、人間として扱うと幻聴の性格がやさしくなってくるとか、そういうことも「研究」(わざわざ括弧(「」)をつけないといけないぐらい研究は決まった機関や人たちがやるものとなっていて、「民主化」されていないものだなあと思いますが。)されています。

 

幻聴を「幻聴さん」と呼ぶことがなぜ状況改善に効果があるのか、お茶を出すことにどんな科学的根拠があるのか、認められ、決められた手続きにそったものだけを認めるのではなく、自ら体験しているものを、実際の状況の変化をなぞっていった結果として現れてきたもの、見えてくるものからそこにある構造を確かめていく探究や研究のあり方が、それにふさわしい一定の位置づけや妥当性を認められる成熟した社会になればいいなと思います。