降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

公開研究会 水俣と京都をつなぐへ

カライモブックスさんのお二人が母校でお話しをされるということで京都文教大学へ。

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水俣と京都をつなぐ

 

シエルというでっかいクリームコロッケを出す大学近くの名物洋食屋に行こうと思ったけれど、時間が遅くなったのと、店がわりと混んでいたのでやめた。

 

光暁館という建物での開催だったけれど、光暁館がどこであったか忘れていて、別の建物に行こうとしていた。トイレに入っていると、誰かが入って来ようとして僕に気づき、出て行った。トイレで出ると後ろから呼びかけられた。前のシェアハウスの同居人だった。

 

先生方は最近会った人もいたし、多分20年ぐらい会ってなくて記憶のイメージと違って、知った人だと気づいてなかった人もいた。職員になった友人もいる。

 

カライモブックスさんは、前に住んでいた西陣のシェアハウスの近くに10年前にできた古本屋で、話しの場の企画をさせてもらったり、何かとお世話になっている。10年というのは、今日聞いてああ、そうかと思ったので、言われるまでわかってなかったのだけど。

 

建物がわからなかったとか、10年という時間に気づいてなかったとか、そういうのは、いい感じだと思う。あやふやななかにいること。きっちり決まってることがありすぎると、ぽっと出てくるものなくなる。

 

部屋が教授会とかしそうな10mぐらいの楕円形に机が配置されていて、参加者同士の独特な距離感が出る。一体感とかない感じ。私たちは個々別々の人、人と人ってこれぐらい離れているものだよねということを教える配置。

 

独特の緊張感が出るのは、いい場合もあると思う。お二人とは店頭ではよく話しているけれど、前に出て発表者として話すの聞くといつもの感じと違うし、普段は出てこない話しもある。

 

僕はお二人が好きな石牟礼道子の本を読んでいるわけでもないけれど、水俣の漁師である緒方正人さんのライフストーリー『常世の舟を漕ぎて』(辻信一さんの聞き書き)に大きな影響を受けて水俣に興味をもった。

 

d.hatena.ne.jp

 

カライモさんでは本を(あまり読めないので。)ほぼ買わないけれど、豆乳とか石鹸とかお茶とかを買っている。なぜカライモブックスさんに行き続けていたのかと思うと自分のなかではリアリティを確認できる場所だったのだと思う。人の救われなさが僕にとってのリアリティであり、日常の具体的な場所でそれを感じられるところはあまりないのだと思う。カライモさんは、自分に必要なリアリティを配給するための場所だと思う。

 

といっても、いつもしんどい重い話しをしているということはなくて、その場で出てくる近況とかのぽっと出の話しをするだけで、議論とか社会運動についてどう思うかとか、そういう詰めていくような話しは全くしない。

 

個人的には重く濃くえぐいものに自分は反応すると感じているので、そういうところによく行こうとするが、カライモさんはそういう感じではない。濃さを求める感じではないけれど、何気なく話したこと、聞いたことが心に残っている時がある。店に行った時に、お二人の心に残っていることをまた自分が聞くという感じ。

 

ゲストハウスの主人が旅人から聞いた話しを宿泊また聞くみたいな感じかもしれない。そういう伝聞で事が伝わってくる。少し遠いところの物語を聞いているようなものなのだなと思う。

 

公開研究会では、こういう場では珍しく、参加者全員にマイクを回すということがなされた。お二人のやりとりの雰囲気もあって、出てくる話しがわりとその人の雰囲気が出る感じだったと思う。水俣はどうなっているのですか、魅力は何ですか、動機は何ですか、というような直接的な問いはふわっと受け流されるという感じがする。

 

それでいいんだろうなと思う。僕はどちらかというと、そういう問いをするタイプであるけれど、ここではそういう感じでないほうがいいのだと思う。その人の雰囲気が出るというだけで十分で、無理にそうやったところで、何もないというか。

 

お話しを聞いているなかで、別れとはどういうものだろうなと思う。与えられて、当たり前のものになって、失われて。失われてから気づくとは本当にそうで、与えられているときは気づいてもない。ということは、別れてから本当に出会えるのだろうなと思う。別れるまでは、出会うこともできないのだ。別れる前から気づきたいと思うけれど。

 

母校だからちょっと懐かしい雰囲気もあるし、自分も参加者で何をするわけでもないのに、まるで家に来られたお客さんを迎えるみたいな気分になっている。

 

お二人の後ろに音無しで水俣関連の映像が多分自動再生されているのだけれど、ちょうど石牟礼さんの話しするときは石牟礼さんの映像が出て、水俣エコパークの話しをしているときはエコパークの映像がちょうど出てくるのが不思議な感じだった。

 

帰りは、行きとはちょっと別の道から帰ってみた。在学中は近くに住んでいたので、通ったことがある道なのだけど、まだらに忘れているから、ああ、あるなと思ったり、イメージが違っているものがあったりだった。途中、川があって、多分この川沿いを自転車で通ったこともあったような感じがする。確かな記憶はない。感じが現れてくるだけだ。

 

参加者の話しのなかで、自分のいる地域が衰退していくっていう話しもあった。ふと、子どもが闇が怖いというお話しを思い出した。闇から生まれて、その闇にもう一度ひきずりこまれるんじゃないかなと思う。元気を維持するのが当然とかなくて、むしろそっちが特殊な状態なのだと思った。意味もなく、特に痕跡もなく、寂しく報われず消えていく。それが生のデフォルトのように思えるのだけど。

 

 

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