降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「治療的」であるもの=「倫理的」なもの

オープンダイアローグ界隈で倫理的であることは、治癒的であるという言葉があります。

 


倫理という言葉は誰かが決めた細かい正しさを全部守らなければいけないような、堅苦しいものというイメージがあるように思いますが、そもそも倫理とは何であるのかと問うことが抜きになっていないかなと思います。

 


治療の場、回復の場など、何が人間の状態を変化させるのかというところにおいて、妥協を許さない探究によって見えてきたことが従来のものの考え方を更新していくことがあると思います。

 


人間に対して、ある場面に対して、このように振舞わなければならないということは一律に決められるものでしょうか。例えば三好春樹さんは、介護する相手の呼び方が絶対に名前とさん付けで呼ばなければいけないかと疑問を呈しています。

 


相手にとって、日常的に親しまれた名前になったり、関係性によって、どのような呼び方が適切なのかは常に変わるはずです。

 


つまるところここで重要視されているのは、様々なブレのある介護者が自分の判断で不適切な行動しないような一律のルールです。

 

 

大きなシステムを回すということが前提の社会では、より良いものを求めるよりも、責めという意味での責任を受けないための防衛のほうが重要になるのでしょう。

 


しかし、その防衛の結果は、一定程度の明らかな間違いをする人を制御しているのかもしれませんが、同時に個々の人は何が重要なのか、自分としてどう応答することがいいのかということを考えなくさせているという大きな負の側面もあると思います。

 


個々人が自分の仕事における範囲だけで発言し、それ以上のことを考える必要がなくなるということは、人間が人間になっていく実践の過程をあらかじめ経験させず、奪っているということであると思います。

 


先日もったちいさな話しの場で、イヴァン・イリイチが近代の生命観に対して行った批判を紹介しました。

 


所有されたものとしての個に閉じた生存(survival)ではなく、周囲や全体と連動し、不可分なものとして生き生きさがあらわれていること(aliveness)が倫理の本質なのではないかというものです。

 


考えることをやめ、決められたことに対して機械的な行動を繰り返すことでよしとするのは、ある意味では責任をまさに放棄することです。私はこれこれをちゃんとやりましたから問題ありません、終わり。というようなものです。

 

責任を放棄するための機械的遵守では、連動する生き生きさはお互いに殺されていきます。

 


話しの場で、倫理とは人間の「ピチピチ感」に対して応答するものではないかという指摘がありました。ある表現に対して自分としてどう応答するか。そのことによって、お互いの生き生きさが賦活されたり、減じたりします。

 


何をすることが、今、そしてこれから先の生き生きさに肯定的影響を与えるのか。そのことは、自分を知り、相手を知り、お互いに感覚を高めていくことが不可欠でしょう。

 

 

こうすれば責任は逃れられるということはないのです。そういう意味では、終わりのない、無限大の倫理のなかに人間は生きているということになるのではないかと思います。

 


生き生きさというのは、私そのものでもなく、相手だけでもなく、お互いのものであり、第三のものとしてあると思います。生き生きさは、私が自分のものとして所有したり管理したりするものであるのではなく、こうしておけばいい、これだけすれば責任は免除されるということに閉じることもできず、私はただ自分と相手と世界に通じる生き生きさに対して、応答していくだけです。

 


お互いの生き生きさを賦活させる応答とは何か。そこにもどることで、固まってしまった「やるべきこと」への機械的遵守がもたらす生きることの疎外から抜けていくこと、現状を派生的に変えていく表現や行動が生まれてくるのではないかと思います。

 

応答すべきことは無限大にあります。しかし、それは義務ではありません。なぜなら義務とは相手を機械にすることであり、ここで述べた意味で、非倫理的であるからです。