降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

闇から希望をつなげて 第3回 狭山事件の再審を実現しよう市民のつどい in 関西へ

阿倍野区民センターで開催された狭山事件の再審を実現しよう市民のつどいin関西へ。

 

第一部に釜ヶ崎で活動されている本田哲郎神父の記念講演があり、本田神父のお話しを実際に聞いてみたいというのが動機でした。本田神父は、優しく落ち着いたテンポでお話しされる人でした。

 

 

 

 

釜ヶ崎の労働者と同じ立場になろうと思って、日雇いをやっていた時、家族の住所と電話番号をしっかりと覚えていながら勇気が出ず、何十年も連絡ができずにいる労働者に出会い、同じ立場になろうとしていたけれど、そんなことはできないとはっきりわかったというエピソードが紹介され、相手と同じ立場で考えることなどできないのだということを何度も訴えられていました。

 

大多数の人、平均的な人を基準にして、ものを見ることに意味がないというお話しも印象に残っています。それは何も見ないことに等しいのだと。「中立」や「第三者」の立場では正義は行えない。解放をもたらす働きである正義は弱者の側に立ちきってはじめて見えてくる。

 

社会の最底辺にいる人、最も弱い人の視点を基準にすることが必要であること。英語のunderstandとは、下に立つことなのであり、俺とお前の関係などと対等な関係で信頼が深まって続いたという例はみたことがないということも語られていました。

 

分からないけど、教えて。分らないけれど、気づかせて。その思いで、口には出さず関わること。

 

いいことをしてあげていると思って、その人の尊厳を踏みにじっていないか。本田神父が前に夜回りでおにぎりを配ってあげた人が、散髪ボランティアをしている本田神父のもとに訪れ、「あの時はありがとう。でもあの姿は娘には見せられないな。」と言われた時に、本田神父は自分を恥じたそうです。いいことをしたつもりが、同時にそこまで相手に恥ずかしい思いをさせてもいたということに、思いいたることができていなかったと。

 

本田神父は自ら聖書の訳をしているそうです。本田神父は「隣人を愛せよ」という有名な言葉は、「隣人を大切にしなさい」というのが正しいとしています。愛するとは、恋人や家族などへのものであるエロスであるのだと。しかし、隣人を愛せよという文章で使われている言葉はエロスではなく、アガペーであり、アガペーギリシア語辞典では”to feel and exhibit esteem and goodwill to a peroson”と訳されており、大切に思って関わるというのが正しい訳だと指摘します。

 

愛すること、好きになることはできなくてもいい。無理に愛そうとして、良かれと思ってすることが、「あわれみ」や「ほどこし」になり、相手の気持ちや望みに気づけなる結果を生んでいたことに本田神父は気づいたそうです。

 

愛するのではなく、大切にすること。相手の立場に立つのではなく、下に立つこと。一番弱い人の視点から社会を見、物事を見ること。

 

石川さん、袴田さん共に、証拠を捏造され、明らかに冤罪だと証明されているのに、なお無視されている。本田神父は何度も二人が無罪だと繰り返されていました。

 

本田神父に続き、袴田さんの家族である袴田秀子さんがお話しされました。袴田巌さんは、1980年に最高裁で死刑が確定いた以降、自分の世界に閉じこもり、そこから今も出てこられていないようです。1967年から2014年まで刑務所の外に出ることができず、秀子さんのもとにもどっても食事のおかわりは看守に言うように謙譲語で言われるそうです。しかし、ご飯を食べる時に笑顔が出てきたり、そうした変化もあるとのことでした。

 

石川さんは、極度の貧困で小学校も途中で通うことができなくなり、農家で働かれていましたが、そのことを勉強嫌いで学校を拒否し、劣悪な環境で犯罪をするような人間性が醸成されたと検察に歪曲されましたが、その歪曲された部分はそのまま判決文にも反映されたそうです。

 

当事者である袴田さん、石川さんのお話しは、本田神父のお話し以上に自分のなかに響いてきました。本田神父のお話しを聞きに行きたいというのが動機であったけれども、もっとも響いたのは当事者である石川さん、袴田さんのお話しでした。