降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「回復」や「自己実現」をこえて 

緊急的な状態が過ぎても日常は続きます。緩慢な危機、その後の不自由はそのまま続きます。

 

レールとずれた人は、どこに向かって生きればいいのでしょうか。ある程度回復したとき、放り出されたような気になります。次にどこに行こうとすればいいのでしょうか。

 

 

「順調」なステータス獲得のレールから外れた人は、その後の充実も二番手、三番手のもの、あるいはさらに劣ったもので我慢するしかないのでしょうか。

 

 

パウロフレイレによれば、被抑圧者は抑圧者の価値観を内在化させています。抑圧されている人が憧れるものは、抑圧している人が憧れるものと同じになってしまうということです。

 

それは富裕層でもない人が、非正規雇用の労働者の賃金を低めにしているZOZOの代表を批判するどころか積極的にそのあり方を称賛する様子にも見てとれるかと思います。

 

フレイレは、対話による意識化が、被抑圧者が否認していた抑圧の事実を自覚させ、被抑圧者を解放すると考えます。

 

フレイレは個々の人が自らの閉じた生活空間にとどまるところから、個々の人を集め、社会のありようを自分たち自身でまざまざと目撃する環境を提供し、人々を解放に導こうとしました。

 

フレイレの実践は確かな成果をもたらし、国際的にひろがっていきました。

 

ところで、そんなフレイレの業績と活動の意義を認めつつ、フレイレのやり方、特に意識化というやや強制的な意思の作業にしんどさや違和感を感じた人もいました。

 

無意識のものを意識化せねばならない。この考え方にはどうしても意識化した人が無意識の人を導くというかたちが感じられますし、そもそもフレイレの『被抑圧者の教育学』は、教育者に対して書かれたものでした。

 

別のあり方はないのかと思っていました。できる人ができない人を導くモデルではなく、ピアとして、横ならびの個々人が自分たちを解放し、環境を自ら変えていく存在になっていくことはできないのかと。

 

専門家によってつけられた診断名ではなく、自らの苦労は自分で名前をつけ、仲間とともにその苦労の研究をしていく当事者研究

 

またオープンダイアローグ的な、数年の訓練を受けたピアがグループを作っていくことで、今は専門家まかせになっているようなことが、自分たちで改善できるようになるだろうと示唆している精神科医もいます。

 

別に専門家を否定しているわけではなく、専門家は専門家のやることをやってもらって、できることは自分たちに取り戻すこと、生きることの主体性を自分たちに取り戻すことが重要なのです。

 

水平の関係性をもった人たちが自分たちで自分たちに必要な環境を作っていくこと。特に内在化されたものを解放していくことに僕は関心を持ってきました。

 

そのあり方を可能とするための考え方。それが「時間」ということになるだろうと思っています。

 

回復、成長、自己実現などなど、そういった言葉を使わなくてもいいあり方。それが「時間」を動かすというあり方です。

 

充実は、その人が直感的に感じられる「時間」を動かしていくことで得られます。そう考えると素人であれ、共に自分たちの「時間」を動かすことはできるのです。

 

「時間」を動かしていくことにより、その人はより自分自身を解放していくでしょう。「時間」を動かしていくことは、それ自体が充実であるとともに、自分を解放させていくことなのです。

 

「時間」はまた、個人の根源的な苦しみ、痛みと密接に関係しています。個人はその根源的な苦しみや痛みに反発する力を、自分の生をひらいていくことに使えます。「時間」を動かしていくことは、自分に生きていく勢いをよりもたらしていくことでもあります。

 

そしてある人の「時間」は、その人だけに完結しておらず、別の人の「時間」と連動しています。よって、ある人の「時間」を動かすことが別の人の「時間」を動かすということが成り立ちます。

 

つまりお互いの「時間」が動くことで協働するならば、どちらかが与えるだけになり、どちらかが受けるだけのような、一方的な関係にならずにすむのです。

 

もちろん工夫なしでうまくいくわけではないですが、「時間」の動きを軸に考えることで、それは成り立たせていくことができることだと考えています。