降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「時間」の感覚を得ることの重要さ 

ジャンル難民ミーティング ワークショップ、<「時間」のすすめ方を知る>終了しました。

 

自分のなかにある生きたプロセス、展開し、動こうしているプロセスに「時間」という言葉をあて、感覚的にとらえられるようになると、頭は身体へ、思考は感覚へ、「いつとも知れない先」は「今ここ」へと戻りやすくなります。

 

「時間」を感覚的に使えるために、まずヤフー記事「時間が止まった私 冤罪が奪った7352日」と「沈黙ー立ち上がる慰安婦」を紹介しました。

 

news.yahoo.co.jp

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

大きな不幸に見舞われたり、必要な体験ができないままでいたり、大切な何かを失った人の「時間」は止まります。「時間」が止まったとき、世界の見え方、感じられ方、生きている感覚は、その止まった時のままになっています。それは人に耐えがたい苦痛や大きな違和感をもたらします。

 

(物語において、往往にして不死者がその生に苦痛を感じるのは、その不死が、循環し更新され続ける生命なのではなく、時間を奪われ変われないもの、止まった時間として停滞するものとしての不死だからでしょう。生命とは、動きつづけ、変わり続ける過程に対する名前だからです。)

 

一方で、「時間」はではどのように動きだすのでしょうか。止まった時間としての「わたし」は、自分の外の何かに関わることによって、変化更新のプロセスを持つことができます。

 

しかし、自分の外であれば何であってもいいかというとそうではありません。変化更新のプロセスは、植物の種のようです。自分のなかにある種に応じたものしか、反応はおきません。

 

種は、あるものは水にしばらくつけないとなかなかでなかったり、あるものは一定以上の温度がないと動きだしません。また発芽にかすかな光が必要なものもあり、むしろ光がいかないぐらいに埋まってしまったほうがいいようなものもあります。

 

それぞれの種に応じて、環境を整えて必要なものを提供することによって「時間」は動きだします。種が芽をだし、生長し変化していくことで、「わたし」の目の前には今まで見えていなかった風景があらわれ、新しい感覚が訪れます。

 

一方で、種としての「時間」が求める条件は厳格で、これぐらいいいだろうと思うような誤差も許さず、うんともすんとも動かないようなこともあります。

 

自分として生きる充実とは、自分のなかにある固有の種に時間を与え、変化させていくことであると思います。種としての「時間」は1つだけでなく、100個あるかもしれませんが、自分にとって特に重要な、欠かすことのできない「時間」(=種)もあります。その「時間」を動かすことによって、生きることが展開していくような「時間」があります。

 

それは鶴見俊輔の言葉で言うならば、「親問題」に関わる「時間」でしょう。親問題は、自分の最も根源的な問い、自分の生きる理由を決めるような、自分が生きていくなかで捨て置けない問題です。それは自分という意識が生まれたときから背負う苦しみであり、同時に自分が生きることを展開させていくときの根源的な動機となり、力をもたらすものでもあります。

 

しかし、そのような動機を意識化し、言語化することはなかなか難しいことです。

 

パウロフレイレは、被抑圧者が自分の抑圧状況をおかしいと思わず(自分自身を抑圧しているからなのですが。)、埋没している状態からその抑圧の存在を「意識化」すること重要であると繰り返し述べていますが、フレイレは無自覚・無意識の状態から意識される状態に「空間的」に移動するような語り口をしています。

 

この「空間」的な移動という捉え方が曲者のようで、この捉え方は、自意識の意思的な操作を前提としており、疲弊的で、地(身体感覚)に足のつかない思考、現実に齟齬をきたす思考を生み出しやすいものです。意思の使用、意思による直接的なコントロールが疲弊をもたらすものであり、自然なプロセスをむしろ阻害するものであることは、身体を使う領域ではよく言われていることであると思います。

 

あるものをある位置から別の位置へと動かす、動かす必要があると捉えるのが「空間」的思考ですが、そのとき、何によって動かすかというと、それは疲弊をもたらす意思ということになります。

 

「空間」的に捉えず、「時間」的に捉えるとそれが変わります。「時間」とは植物の種のように条件を与えれば自律的に生長し展開していくものです。変化のプロセスは、意思によってではなく、それ自身によって展開するので、意思が引き受けていた過剰な重さはなくなります。むしろゆだねの感覚が生まれ、自意識は楽になります。その結果、エネルギーが増え、できることが増えます。

 

「空間」的に捉えるとき、まずゴールが設定され、そのゴールへ向かうべく(遠い)道のりが意識されます。それは疲弊的です。一方、「時間」的に捉えるなら、ゴールではなく、今ここにある感覚、しかもどこかへ動こうとしている感覚に意識が向きます。そして、動こうとしているものに応じ、その動きに乗っていくことができます。動きは展開し、やがて何かのかたちとなっていきます。

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』の掃除夫ベッポ爺さんは道路を掃除するとき、ゴールを考えずに目の前のそこを楽しく没頭できる状態にすると、どんなに大変に思える仕事も気づけば終わっていると言います。

 

偉業といわれるものの少なからずが、偉業自体を達成しようとして達成されたのではなく、そういう意識はなかったのだけど、あることに熱中していて派生的に達成されたということがあると思います。それは、むしろゴールを見ないやり方だったからこそ、いい状態が維持され、結果として達成がおこったとも考えられるのではないかと思います。

 

さて、今回のワークでは、自分にとってすておけない関心事、問題意識に加え、その問題意識が生まれたエピソードを紹介してもらうということをしました。生きた感覚、そしてその流れというものを想起し感じることを重視しました。想起し、感じることは「時間」を動かす行為でもあるからです。

 

焚き火をすると、薪は一度に全て灰にはならず、燃え残りがでます。それをまた火の中央に持っていったり、細かくなった炭に空気を当てるためにかき混ぜたりします。一度燃えているものなので、燃える力はあります。

 

ワークは、もともと燃えているものに対して、その燃焼を助ける作業です。火の中央に置いたり、空気をあてることで状態は確実に進展しています。「時間」は目に見えにくいプロセスです。ですが確実に移行しています。直ちに意識化、言語化する必要はなく、それらができていないからといってがっかりする(すると火の勢いは落ちてしまいます。)必要もないのです。

 

もともと火がついているものの燃焼を助ければ、意識で明瞭に把握していなくても、その分だけ進んでます。意思を使用しすぎて疲弊することを避け、無理なくただ「時間」を進めていくということが重要です。この感覚を得ると、停滞していると思われる状況に対して、疲弊や絶望を伴わず、淡々と「時間」を動かしていくことができます。

 

自分のなかで、生きているもの、動こうとしているものに気づき、その求めに気前よく与えること。そのほうが結局は、疲弊せず、活力は満ちてくるのです。

 

今の自分という場所から、あるべき姿という場所へ移動せねば、と「空間」的思考に陥ると疲弊します。そこにはもともと動こうとしているものがありません。「空間」的思考でやりすぎると反動がおこって、スタート以前に戻ったりします。あるいは移動したと思っていたけれど、実は自分はスタートから一歩も動いていなかったということに後で気がつきます。

 

一方で、動こうとしているものに気づき、出し惜しみせず、求めに応じていると、「時間」はその分確実にすすんでいて、その展開は元にもどることがありません。実際の「効率」はこちらにあるように思えます。

 

感じること、そして感じているものが動くようなことをすること、それを中心にし、軸にすると「時間」が動きだします。自分が進むためには、何か特別の解決方法を編み出さなければいけないのではなく、ただ、今の「時間」が動いていくことをそのたびに提供していけばよく、そうするとやがてどこかにたどり着きます。

 

「空間」的思考から「時間」的思考へ移行すると、意思に縛られていた心はその分解放され、圧迫は減ると思います。

 

また「時間」は生きているものであるので、周りの人にも伝わります。実際に人に会い、誰かの「時間」を感じることは、自分の「時間」の動きに連動しています。

 

自分の核心的な関心。差し置けない問題意識。それらは自分のなかに動こうとしている「時間」があるととらえることもできるでしょう。探究とは、つまるところ、自分の「時間」を動かそうとする行為であるのではないかと思います。探究と「時間」は密接な関係を持っています。

 

そして、自分の「時間」を動かすだけでなく、周りの人の「時間」が動いていくと、さらに自分の「時間」が動きやすい環境が形成されていきます。お互いの「時間」を動かすことを助け合う環境を育てていくのが、ジャンル難民の集まりの重要な趣旨です。