降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

第2回ジャンル難民ミーティングを終えて アイデンティティ

ジャンル難民ミーティング、ジェンダーを含めて、今回アイデンティティについて関心がある人が割と多かったような気がします。

 

さて、当事者にとっては、アイデンティティと呼ばれるものの学問的な位置づけを知りたいというよりは、自分からみても納得し、肯定性が見いだせる自分の位置づけを見つけたいということなのではないかなと思えます。

 

建前や前置きの仕方はどうであれ、世間では例えば正社員で結婚している人が「普通」であるとされ、そうでない人、そういう性向を持たない人はあからさまでなくても、ちょっと違う人、ちゃんとしていない人、ぶらぶらしている人のように二流市民扱いされます。

 

「普通」というのは大多数が自然にそうなのではなく、あるべき姿としてあります。「普通」にあわせなければ世間的、慣習的感覚ではちゃんとした人として認められないという風土があります。

 

そこで「普通」とされる何かができなくても、後ろめたさや罪責感の否定性の沼にひきづりこまれず、むしろ出ていく自己認識へはどのように移行できるのだろうかということが問いになるのではないかと思います。

 

よく自分が変わるというふうに言いますが、自分の体は別に変わっていないので、自分の認識や感じ方、体験の仕方が変わっているのだと思います。

 

フリーターなりニートなり、といったような世間からは否定的に見られるアイデンティティを持たされてしまうと、まずそれによって停滞状態になって、その人の「時間」が動いていきにくくなりますが、その「時間」を動かしていくにはどうしたらいいのでしょうか。

 

一つは、そのような否定的な価値観が押し付けられたりしない空間に移動したり、あるいは調整して作ったりするということが有効なのかと思います。強迫が打ち消された空間では、自分のなかで、動きだすものが生まれやすくなります。その動きだそうとしているものが展開を生みます。

 

本当に頼れるもの、信頼できるものは、既に知っているものではなく、今自分に潜在しているその自律的な動きであって、そこに応答することによって、自分への信頼、他者への信頼が回復されていくように思います。

 

強い関心や興味、生きていくなかでどうしても気になってしまうこと、それらが生まれる背景には、自分のなかに根源的な痛みや傷の存在があるようです。鶴見俊輔ならそれを親問題というでしょうし、国分功一郎さんもアイデンティティは生まれてきたときから負っている無数の傷、過去(Human Fate)と人間の本性(Human Nature)の相互作用としてあるといいますが、根源的な痛みや傷がその人の生きづらさの原因でもあり、同時にそこから回復していくための強い動機や力を提供してくれるものであるようです。

 

個々人はたとえ意識化していなくても、自らの根源的な痛みや傷から派生した、生きることに対する根源的な問いを持っていると思います。そして生きているなかでその問いを確かめていくことを動機づけられているように思います。その強い動機は自分が生きることを展開させていく推進力になると思います。強迫が打ち消されたときに出てくるのは、そのような根源的な問いに繋がっているような動きなのではないかと思っています。

 

さて、このように書くと、生きるなかで何かを達成しなければいけないかのように思われるかもしれませんが、別に達成することはないと思っています。意味とはその後に繋がる有用性なのですが、太陽も寿命があるわけですから、やがて全ては消えていくので、達成に意味はないのです。どのように生きたとしても間違いではないというのはそういうことだと思います。

 

ただ、言葉を持ってしまった人間は、意味を求める世界に投げ込まれていて、世界はそう認識されるので、自分の意味を回復させる行為に充実を感じるのだと思います。なので、生きている間は、自分の根源的な痛みや傷に対して生まれる回復への動機へ応答することが、豊かなサバイバルの選択としてあるということだと思います。