降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「迷惑」が必要なのはなぜか 

人間は自分で自分を疎外していきます。そしてその疎外を自分だけで止めることはできないと思います。僕は昨年奥田知志さんを知って、人間観がようやくそこに落ち着きました。

 

人間は素晴らしい、とかとにかく全肯定の人間観は実は否定的なのです。なぜならそうなれないからです。弱く、苦しんでいる人ほど、そんな素晴らしい人間観に耐えきれず苦しみます。

 

弱く、どうしようもなく、一人では駄目である、という人間観のほうが、妥当だと思います。そうなるとみんなが駄目になるのではなく、逆で、自分に着地できると停滞から抜けていくことができます。

 

奥田さんは、人と人が健全に傷つけあうことが社会にとって必要であるといいます。また地域から「迷惑」をひくと何が残るのか、ともいいます。

 

人間が自分で自分を疎外していくということは、具体的にはどういうことかというと、一人一人は、とりあえずの自分にとっての安定っぽいものが得られれば、それでよしとなって、自動的に自分のその状況を変えないように動機づけられてしまうからです。それは強い力であって、自分も気づかないところからそうなってしまうと思います。

 

そして次に、ごく自然にそのとりあえずの安定っぽいものを揺り動かすものを抑圧しようとします。ところが「迷惑」をかけないと、その場で既に強いものが強いままになること、誰かがより負担を多く担っているのにそれを認めない環境のいびつさを許します

 

そして、その仕組みに従う人は、そもそもはその仕組みと仕組みを作っている上の人が悪いのに、そこには怒りをむけず、その仕組みを「破る」、自分と水平的な立場の人に怒りをむけます。あの人が「迷惑」をかけていると。

 

しかし、奥田さんも指摘するように、実のところ「迷惑」をかけない人同士の社会とは、健全な社会ではないのです。なぜなら、それぞれの個人は安定を得たらそれでよしとなってそれを守る自動的な傾向があるので、「迷惑」という他者がやってこない限り、社会は変わらないからです。

 

男女平等ランキング114位の日本とは、昔から変わっていないということだと思います。社会の「時間」が止まったままです。強い人が誰かを踏みつけにして、そのまま幅を利かせると「時間」は止まります。「時間」とは人間が文化的存在としての人間になっていく変容のプロセスです。

 

弱いもの、どうしようもないもの、一人ではダメなお互いの「迷惑」に応答していくことで、環境は変わっていきます。それは自動的にその環境の権力体制、止まった「時間」への反逆になるので、当然周りから圧力を加えられるのですが。

 

しかし「迷惑」をかける人に対してお互い人間でありながら応答するということしか、環境や社会が変わっていく方法はないのだと思います。底にいびつな体制があったとしても、そこで得られる一時的な安定に安住し、それをよしと思ってしまう人間の自動的な自己疎外、そのどうしようもなさを変えてくれるのは、今の自分のあり方を成り立たせなくする他者なのです。

 

今の自分のあり方が成り立たなくなる他者が強制的にやってこないと、人間も社会も変わらないのだと思います。善意ある人、意識ある人が自分から変えられるのではないと思います。当たり前のように流通し、内面化されている「迷惑」をかけないという道徳は、根本から吟味され、あらためられる必要があると思います。

 

「迷惑」をかける人への怒りがあるのなら、その人は自分の「時間」も止めています。自分も知らずに自分の「時間」を止めてしまうその内面化された抑圧から解放されていくためにも現在の自分のあり方を成り立たせなくする「迷惑」という他者とそこへの応答は必要であり、それ抜きには人間らしい環境など作られていかないと思います。