降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

変容の繭 学びとルーブ・ゴールドバーグ・マシン 

「自給」とか「DIY」というと閉じてこじんまり完結したサイクルに入りたいんだなとよく思われるようです。よく会話で持ちだされる「定年後の畑」みたいな、お金を稼いで安定が保証された後のささやかな解放と楽しみ、みたいな文脈で理解されるなあと思います。

 

自給というと、そういう閉じたサイクルに入ることが目的だと思われるのですが、その閉じたサイクルと見えるのは、国とか会社とか、誰かの都合で自分の生きることが左右されない自律性を担保する「手段」なのであって、目的ではないのですね。

 

でも、一般的にはお金を多く得ていることが自由や自律性を獲得することであると思われています。ところがお金で得られるものというのは、出来上がったものです。

 

すでに出来上がったモノ、システムに生きることのほとんどを埋没させることは、実のところ人にとっての疎外なのです。

 

人には自らの中身を更新して変化していく動機があるのですが、その動機が展開していくためには、その動機にとってジャストフィットする環境と条件が整う必要があります。その環境と条件が揃ってようやく変容の「時間」が動きはじめます。そのジャストフィットした環境と条件は自分にとっての「変容の繭」ともいえるものです。

 

そして自分に必要な「変容の繭」は、つまるところ、自分自身でしか調整できず、自分でしか作ることができません。「変容の繭」をつくるための材料は、用意された「商品」では足りず、一つ一つこの広い世界からとってこなければ事足りません。出来あいのものでは、「変容な繭」には不十分なのです。

 

そしてこの「変容の繭」をつくる力もまた、リハビリやエクササイズなしには奪われてしまうのです。別に食べものを自給したり、家や生活用品やらを自分で組み立てたりしなくてもいいのですが、自分に対して自分の「変容の繭」を提供するというリハビリやエクササイズの機会が奪われることは、その人を疎外します。

 

「変容の繭」(ここには場所とか、誰かとの関わりということもはいります。)を必要に応じて自分自身に提供すること。人はそれを生きる間になんども繰り返そうとしていると思います。変容し、また必要なものを得て、そしてまたそれでは不足になり、変容する。

 

この一連の繰り返しの過程を「学び」と呼ぶのだと思います。子どもに素晴らしい教育方法によって固まった何かを「身につけさせる」のではなく、「教育」の意義はリハビリとエクササイズの機会を提供し、もともとある動機が健全に発現しない疎外を最小限に食い止めることにあると思います。それはすなわち、自分で自分に必要なものを広い世界からとってきて組み立てる力だと思います。

 

 

ところで、ピタゴラスイッチみたいな仕掛け、ピタゴラ装置のことをルーブ・ゴールドバーグ・マシンというそうです。

 


【凄すぎ‼】Twitterで話題のピタゴラスイッチ

 

Wikipediaにはこうあります。

 

普通にすれば簡単にできることを、手の込んだからくりを多数用い、それらが次々と連鎖していくことで実行する。樋状の棒の上に玉を転がしたり、ドミノを倒したり、台の上に何かを置いたりするなどの簡単な作業を行うことで仕掛けが作動し、それによって次の仕掛けが作動していく。このようにしていくつもの仕掛けを連鎖的に作動させ、最終的に何らかの作業を実行する

 

生きること、学ぶことはこのピタゴラ装置をつくることのようだなと思います。玉は物理法則の通りにしか動きません。しかし、人にとっては、玉を動かしていく必要があります。自分が関われるもの、用意できるもので玉が動く仕掛けを作っていきます。

 

自分という個別の状況において、玉が動いていく条件に適合する仕掛けはなかなかありません。ですが、あるものでそれを作っていくのです。用意された商品だけが溢れる世界では、自分という玉を動かしていくピタゴラ装置は作れません。

 

規格外のもの、他の人にとっては無駄なもの、そういうものを使って、なんでもありで、今まで考えなかった自由な発想で、玉を動かす仕掛けを作っていくことが、「変容の繭」をつくるときに必要です。そして作った「変容の繭」から出てきたあとも、生きているならば、また次なる「変容の繭」をつくる時がやってきます。

 

「自給」や「DIY」の意義は、「変容の繭」をつくる本能的な感性を鈍らせないことです。何も自分がやりたくないこと、必然のない「自給」や「DIY」するなんてする必要はなく、それは単に頭のなかの「あるべき姿」にとらわれた転倒です。そうではなく、自分にとって生きる世界が開けることにおいて、ピタゴラ装置を作っていくということだと思います。

 

「自給」や「DIY」でやっていることは、自分の生きる世界をピタゴラ装置化していくことだとイメージしてもらえたらいいなと思います。与えられたもの、用意されたものではなく自分に必要な「変容の繭」をつくっていくこと、そのリハビリを続けていくことによって、自分が自分として生きるということが可能になっていきます。