降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

異化と同化 生の更新と永遠の毒

身体教育研究所の角南和宏さんがジャンル難民のことをブログで触れてくださいました。

 

異化と同化について考えています。記憶とは異化されたものだということです。それが同化したとき、記憶は消える、と。

 

では、同化するとは一体何に同化しているのでしょうか。「自分」に同化するといっても、「身体」に同化しているのか、「自意識」に同化しているのか、「自然」に同化しているのか・・・。

 

この体自体が、そもそも異物と異物の対話としてあると考えてみるならどうなるでしょうか。対話であるので、そこには相互変容がおこっています。しかし、ただ無秩序に相互変容がおこっているのではなく、その変容はある一定方向へ向く力の流れ、エネルギーをもたらしていると考えます。一定方向とはつまり、自分が生き、活性化する方向です。

 

同化とは、「自分が生き、活性化へと向かうエネルギーの流れ」に対する同化なのではないかなと思いました。そこにおいて、異化されたものはその生へ向かうエネルギーに対して、干渉をかけ、エネルギーを弱めています。と同時に、異化されたものは、そのエネルギーの流れの通路自体を副次的に拡げる力ももっているのではないでしょうか。

 

異化されたものは「毒」でありながら、同時にエネルギーの流れのあり方を変容させ、結果として増進させることができるものとしてある。

 

魔女ランダと神獣バロンの永遠の闘いを連想しました。混沌と秩序の闘い、生と死の対話による創造。生きるということは、この矛盾の対話、永遠の闘いによる創造なのではないかなと思いました。

 

すると、生きるためには終わることのない異物、他者、異化されたものが必要であり、生きものは終わることのない永遠の毒を抱えこんでいるのではないかと思うのです。それは生きることを危うくもさせながら、生きるあり方を更新するものでもあります。

 

自分にとっての永遠の毒が、同時に古びていく自分を刷新し、エネルギーの流れを更新していく救いでもあるのではないでしょうか。その永遠の毒とは、自分という存在の根源的な痛みであり、鶴見俊輔のいう「親問題」であるのではないかと思うのです。

 

ジャンルという言葉が示す通り、何かを分けようとすると、そこから抜け落ちてしまうものが出てくるのは当然で、その抜け落ちてしまうものに焦点を当てようとすると本人が難民化してしまう。

 

我が身を振り返ると、「ああ、自分も難民なのだ」と気づかされる。そもそも稽古場に集まってきているのは、みんな難民ではないか。自分の中で同化しきれなかった異化を、どのようにすれば同化しうるのか。ここに来れば同化の糸口を得られるのでないか、稽古場は、そんな風に感じた人たちの受け皿になっている。手掛かりとなるのは、万人が日々付き合っている自分の「身体」というということになる。

 

異化の種類ありようは百人百様であるのは当然で、その異化されているものこそが人生のテーマとなる。

 

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