降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

三つ積んでは消えていく 身体性の継承と賽の河原現象

鶴見俊輔のサークルの研究、フレイレの被抑圧者と抑圧者の内面性や対話による変化の分析、林竹二の実践。

 

既に明らかにされているようなことがまるで蓄積されておらず、もう既に分析されたことをまたゼロから考えてやるみたいなことになっているのはなぜだろうという話しをこの前していました。

 

積んでいった石が崩れてまたゼロに戻る賽の河原現象。身体性と関わることだからかもしれないなと思いました。頭で理解できることだけが蓄積されて、実践的知性は身体がないと継承することもそれ以上考えることもできない。

 

サン・テグジュペリ星の王子さま』に出てくる地理学者は自分の星に海があるか山があるかも知りません。地理学者の情報は探検家の話しに依存しており、探検家がそもそも少ないからです。彼は調査に関わりません。しかし、この身体性の不在は地理学者が持っている世界観の根底を更新し得ないように思うのです。

 

新しい知識をどんなに蓄積したところで、入ってきたものが自分の持っている物の見方自体を更新しなければ、その知識はその人の古い見方のまま序列づけられ、古い物の見方をかえって強化するようにすらなります。そうなるとその人の殻を厚くするだけのその蓄積された知識はないほうがいいようなことになります。

 

そして物の見方が更新されることは、身体性(リアリティの強さ、迫真性といえるかもしれませんが)を伴って揺るがされるところに大きく影響されるのであり、頭だけで知識を集めることはマイナーチェンジしかできないOSであることに甘んじているようなことではないかなと思います。

 

実践と思考はお互いを更新するものと位置づける必要があるのだと思います。

 

フレイレは、対話を単に相互変容、相互更新をおこすものとしてだけでなく、世界を変革させる言葉「真の言葉」に近づく手段であるとします。フレイレは、対話には行動と省察の二つの次元があり、その相互作用、循環によって「真の言葉」が現れてくるといいます。

 

 

行動の欠落は空虚な言葉主義を招き、省察の欠落は盲目的な行動主義を招く。真正ならざる言葉は現実を変革する力をもたず、その結果、二つの構成要素は分断されることになる。

行動という次元から根こぎにされた言葉は、当然の帰結であるが省察とも無縁なものとなり、聞く者と語る者の双方を疎外する。泡のように虚ろな言葉からは真の現実否定も変革への意思も、ましてそのための行動も期待することはできない。他方、行動だけを強調して省察を犠牲にすると行動のための行動に邁進することになり、真の実践は否定され、対話は不可能になる。 里見実『パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む』

 

 

フレイレによって、ここまで詳細に分析されているのだから、日本でもどこかで継承されていてもいいだろうと思うのですが、ぱっと目につくようなところで実践されている気配がありません。流行りの手法がやってきて、文脈を切り取られた「手法」としてだけ消費され、未消化のまま社会の記憶から去っていく。

 

やはり身体性に関わることは、一つ二つ三つ積んではゼロに戻る繰り返しなのでしょうか。

 

もしかしたら継承されているところがあって、そこに出会うためにも、自分たちが在野で実践して、探究していくことが必要なのかなと思います。