降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

吉田寮 集会「踊らされるな、自分で踊れー大学の今とこれからを語る集いー」へ

吉田寮京都大学にある築105年の古い寮。

 

matome.naver.jp

 

僕も12年前ぐらいに住んでいました。

 

1年前、去年の12月19日に、京都大学から寮生に対して、18年の9月末までに全員退去するようにという退去通告がなされました。大学は寮の老朽化に対する寮生の安全確保を退去の理由にしていますが、新しく建てられた築3年で安全に問題のない新棟(西寮)の寮生に対しても退去を求めていて、その言い分には矛盾があります。

 

吉田寮に関わる様々な人たちがこの1年色々と取り組みをしてきました。

京大吉田寮の歴史や意義語ろう 10日イベント : 京都新聞

 

築100年吉田寮、どう活用? 京大でシンポ : 京都新聞

 

僕もここ何ヶ月か水曜ゼロ円飯という寮生応援の活動(寮生以外もカンパで食べられます。)のお手伝いをしています。

 

 

僕自身は吉田寮にとても愛着があるというわけではないのですが、自分にとって重要な経験をすることができた場所であると考えている友人は多く、吉田寮西部講堂はその自治によってとても自由度の高い様々な経験を関わる人に提供したのだろうなと思います。

 

僕は自律的空間のなかで人は回復していくことができると考えています。自律的空間でないとそれぞれの個人にとって必要な自由がつくれず、必要な自由がないと、必要な体験ができず、人は変わっていくことができないと思っています。その意味で吉田寮は重要な存在であると思います。

 

今日の集会では様々な立場の人が発表をしていました。遅れての参加だったので前半の方の発表は聞けませんでしたが、あらためて知って驚いたこと、印象に残ったことがありました。

 

一つは吉田寮熊野寮の「ストーム」という祭りでツイッター上で「吉田寮の女性にボディタッチした」とツイートしたセクシャル・ハラスメントに対しての寮自治会の向き合いを高校生の時にホームページでみて、エンパワーされたという農学部の学生の発表でした。配られた資料に詳しく載っていたので見入ってしまいました。

sites.google.com

 

「男性」性を共有するということは一体どのようにして確認されるか。それは一言で言えば、「女性」を性的なモノとして扱うことによってである。「女性」を遠巻きに見て品定めをする。ライブに出演した「女性」を本人の許可もなく至近距離で撮影する。既存の「男性」特権を発揮する仕方で様々な「女性」をとっかえひっかえ食い散らかす「男性」に対して、羨望の眼差しを向ける。その一方で、ポリアモリー1に基づき複数のパートナーと交際する「女性」2を、それが「女性」であるというだけで蔑視する。こうした行為はまさに「男性」が「女性」をモノとして見ているがゆえの行為といえよう。そして、今回問題となっているSNSでの投稿や言動も、まさにその一例である。

 

 「女性」あるいは「男性でない者」をモノ化できることが「男性」性の定義であり、それができない者は、その性自認に関わらず、「男性」であることを許されない。このように、特定の行動様式を共有しない者を排除して構築された場をホモソーシャルな場と呼ぶ。上述のように、熊野寮吉田寮では「男性」が多数派を占める。このことは、「男性」性に基づくホモソーシャルな場が幅を利かせる一因となっているだろう。同時に、こうしたホモソーシャルな場が「女性」あるいは「男性ではない者」を排除しているなら、これが原因となって「男女」比の偏りが起こっているともいえる。このようにしてホモソーシャルな場は絶えず「他者」を排除することによって強化されていく。

 

 今回のSNSでの一連の発言の根底には、寮を支配する「男性」的なノリが確かに読みとれる。自らの痴漢行為を告白するあの投稿は、自分が属している共同体、ホモソーシャルな場の構成員に対してなされたものとも言える。痴漢行為を誇示するということは、自分はちゃんと「女性」を消費できるということを仲間に対して証明するということである。「男性」性を共有した構成員はこれに賛辞を投げかける一方で、こうした一連の言動に対して異議を唱える者には強烈な拒絶反応を示す。これは具体的には、セカンドレイプや加害者擁護のかたちであらわれる。

 

 寮では様々な価値観を持った者たちが生活空間を共有する。しかし、そこにひとたびホモソーシャルな場が登場すれば、寮に住まう者たちは常に「男かそうでないか」と監視され続けることになる。そしてその中で「男性」でいられない者たちは、「男性」にモノとして消費されるほかない。「男性」が「男性」であることを謳歌する、そのすぐ足もとには「女性」あるいは「男性ではない者」として排除され、蹂躙された人間が倒れていることを自覚すべきである。

 

男性同士のやりとりで日常の風景だけれど、嫌だなと思っていたことは、フェミニズムでは、ちゃんと言葉にされていたんだなとよく思います。僕自身は身体的性別と性自認は男性で性指向は異性愛のシスヘテロであるけれど、そういう会話は本当に辟易していて、あんまり男性コミュニティに近づかないです。ホモソーシャルな場では、僕も女性を消費する男性らしさをもてない、<「男性」でないもの>としてモノ化されるので。

 

ついでにいえば、男性コミュニティでなくても結婚したり子どもをもつのが人の前提、幸せの必要条件みたいな価値を平気で言ったり、男(の子)はこうだとか、女(の子)はこうだねとか、何かにつけてすぐ言うコミュニティにはいにくいです。自然系・環境系のコミュニティでもそれは結構多いように感じます。なかなか価値観が「やさしい」場所というのは少ないなと思います。

 

フェミニズムで言われていることを知って、この嫌悪感や不快感が単に自分の不適応や個人的なことによるのではなく、それらは人の尊厳を侵害している行為なのだと位置づけられるようになると大分気分が楽になったように思います。

 

話しは集会に戻ります。京大が琉球アイヌ民族の墓から遺骨を奪い、研究対象にしている問題の発表からは、京大がそれぞれの返還の申し入れへの回答を拒み、返還の責任を避け続けていることの指摘があり、まあ本当に大学はロクでもないなと思いました。どんな立派なことを言っていても、これが実態なのです。大学の非人道性はどれだけあからさまなんだと思いました。


フロムは、余すところなく管理されることによって生命はその本質である自由を失うと指摘しています。本質を失い、自由を失い、人がゾンビ化していく社会のなかで、どのように人として生きられるのか、そのような環境を作り出せるのかが問われていると思います。