降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

待っているわけにはいかない 野生の探究の必然

ジャンル難民ミーティング、1月20日の会は、実際にどのように探究をはじめられるのか、探究が進むのかしているかをインタビューしながら考えていこうと思っています。

 

実業家であり宗教者となった吉本伊信が浄土宗の身調べという修行を一般の人でもできるようなものにした内観療法

 

内観療法は、子どものころからの現在までの自分まで、時間をかけて記憶を想起していきます。過去の経験は、その過去の時点の自分によって意味づけられていて、それは放っておくと捉え違いであっても、そのままになっています。

 

時間として過ぎ去ったことも精神のなかで終わっていないようです。禅寺の石庭などに波紋のような模様がありますが、精神の空間のなかにしこりとなり、結び目となって、石庭の島が波紋をおこしているように、常時精神に影響を与えているようです。

 

精神は、真っ暗なハードディスクのようなもので、そこに乱雑に記憶が漂っており、ハードディスクに影響を与えているように思います。内観はそのような記憶を整理して、精神をかき乱していた思い込みや経験の記憶に別の意味を与え、転換していくようなことをやっているなと思います。

 

7歳の時の経験は7歳の自分によって意味を与えられますが、知らないこともあるし、間違って捉えていることもあります。それらを現在の自分から捉えなおし、おさめていきます。

 

今僕が書いたようなことは、内観療法のなかでは言われていても、一歩その領域をこえたところでは、まるで共有されていないように思えます。

 

ある分野で発見され、到達されていることが、隣接する分野にとっても有用であってもそれは全く共有されていないのはなぜなのかといつも思っていました。今は、むしろ多くの場合はそうなっているのだろうと思います。

 

分野が違えば、知見はバラバラな断片としてあって、統合されていない。自分がその機序や構造がどうなっているのかを知りたいと思うなら、分野と分野を渡りながら、共通しそうなものをピックアップし、切り取り、配置しなおしていく必要があるように思います。

 

そうやって統合されたと自分で思うものが妥当かどうかは、自分とは別の分野の人や何かひっかかりをもつ当事者の人と話しているときに確かめます。

 

その人がずっと妥協なく考えていること、探究を続けていることに対して、そこに浮かび上がる問題はこのように捉えることができるのではないか、こう打開できるのではないかと言ってみて、それが相手のひっかかりをほぐせるようなら、その考えはまず妥当だったと考えます。

 

もしかしたら間違いかもしれない。けれど、この探究は、探究を続けることによってしか確かめていけないので、妥当だと思ったことをまた作業仮説として確かめていくということを続けていきます。これは科学的な方法にそったものではなく、野生の探究の方法だと思います。

 

間違っていたら自分が停滞するという代償をもって、更新を続けていきます。自分が生きるには、誰かが「実証」してくれるまで指をくわえて待っているわけにはいかないのです。間違いが含まれることは前提です。しかしその前提に自覚的であれば、どんな仮説をもってどんな探究をすすめていってもいいのではないかと思っています。