降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

12/12 星の王子さま読書会

毎月第二水曜日の星の王子さま読書会。
今回は6番目の星の地理学者の場面。

 

地理学者は、王子の質問に対して、大洋がどこにあるか、山がどこにあるかを知っているのが地理学者だといいますが、王子が彼の星に何があるかをたずねると「わからない」といいます。

 

地理学者は自分の場所の外に出ず、探検家から話しを聞き、その探検家の評判を他の人に確かめ、さらに探検家に証拠となるものを持ってこさせてそれを本に記入するとのこと。そして探検家は足りないので、自分の星のことは知らないということでした。

 

進行役の西川さんは、この王子の星めぐりにおいて、大人たちの愚かさに王子が呆れるという通常の解釈ではなく、愚かなようにみえる大人たちであるけれど、実はそこには王子にとって重要なメッセージがあり、表面上のものにとらわれてその隠れたメッセージを受け取れない王子がだんだんに気づいていくという解釈をしています。

 

王子は地理学者とのやりとりのなかで、置き去りにした花が近いうちに消えてしまう、はかないもの、死するものだと知って、自分の責任に気づきます。

 

王子の責任と所有の概念はよくあるものと違っています。王子にとっては、自分のものとは、ケアを提供するものであって、自分を利するものではありません。自分が関わるものに対してはその責任を果たすことが人として重要なのであるという考え方のようです。

 

しかし王子には、自分を愛したもの、分かち難く思ってくれるものに対しても責任をとるという意識は全くありませんでした。王子は孤独でした。しかし、王子には孤独ということがどういうことなのか、そして自分が孤独であることも知らなかったのです。

 

今までめぐってきた6つの星の人たちは全て自己完結的で、同じことを延々と繰り返すようにプログラムされたロボットのようでした。彼らにはそれぞれの求めがあり、その求めを達することで何かを得ようとしていますが、その求めは到達されることのないようなもので、しかもそこへ向かおうとする彼らのあり方は、ずれていました。

 

王子は自分のちいさな星で、一度に日の入りを44回見たことがあります。夕陽が沈むたびに座っている椅子を地平線の方にずらして、もう一度日の入りを見たのです。

 

なぜそんなに何回も日の入りを見なければいけなかったのでしょうか。その行動は終わりを求めている反映であると思いました。その終わりは今の自分が終わり、新しい自分に変わるということだと思います。

 

それぞれの星に住んでいる自己完結的な変わらない人たち、決まった形式にただ従う人たちはみな一人でした。一人である、孤独であるということは、自分が変われないということであるのだと思います。そしてそのような大人たちが変だと思っていても、王子もまた彼らと本質的に同じだったのです。

 

星の王子さまは、戦争中のヨーロッパに残してきたサン・テグジュペリの親友、レオンヴェルトに書かれたものだとされています。レオンヴェルトに対して、サン・テグジュペリがおくろうとしたのは、置き去りにしたことへの謝罪であり、あなたが私を放り出されたこの孤独、意味を失った放浪から救い、心を持った人間としてこの世に再生させてくれた、そして遠く離れていてもかすかなしるしからあなたを感じられる、生死をこえ、共にいることができるというメッセージだったのではないかと思います。

 

西川さんは、この読書会の大部分の時間を自分が喋っていて、まるで一方的な「学校教育」ではないだろうかと懸念されていましたが、関心をもって聞くひとがいるこの読書会のなかで新しいことに気づいていくというふうにも言われていました。

 

フレイレは預金型教育においては、教える側は教えられる側に対峙している時、もう変容のプロセスをおこしていないと指摘し、そのことがお互いの疎外をすすめるとしています。対話とは自分が変わりながら相手と関わることです。西川さんの変容のプロセス、時間が動いているとき、また参加者の時間も動いていると僕は思います。

 

誰かの時間が動きだすとき、それはその周りの人たちの時間にも連動していくようです。自分が生きることとは、時間を動かしていくことです。動いている時間のなかにあることです。そして時間を動かすことは、お互いに与えあうことができ、それは減ることのないことだと思います。