降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

探究を促進する環境とは

今日はジャンル難民学会(仮)発足ミーティングがあります。

 

先にも触れましたが、今回このタイミングでやれるとは思っていませんでしたが、やりましょう、というありがたいお声がけをいただき、やることになりました。

 

やると決まると、自分がいる状況の文脈が変わるので行動が変わるなあと実感します。

 

読書会での発表もそうですが、発表するという前提がないときは調べないようなこともちょっと調べるようになったり、これも伝えたいなということが出てきて、気づけば無自覚になっている自分のルーティーンの外に出る行動をしています。わずかであっても、自分の閉じたルーティーンの世界からはみ出てしまうことで、その分新しい世界に出会う工夫は重要だなと思いました。

 

特に、最初からそうしようとするのではなく、何かをやる際に派生的にやってしまうという遠心力的なものを使うのが工夫だと思います。

 

ミーティングをやるとなって、あらためて調べたり、整理したりしていると、軸は探究ということなんだなというのがより実感されてきました。探究とは何なのか、ということを一つテーマとしてやっていきたいなと思い出しました。

 

そう思うのも甲野さんの本を色々見始めたからですが、甲野さんをだいぶ前から知っていても、今ほど関心をもつことはなかったです。発表したり、ミーティングをやるからまあ読もうかなということになって、そこから新しいプロセスが動き出しています。

 

そういう意味では、自分自身の衝動と惰性だけに従っていると、自分の求めも展開していかないようです。

 

さて、探究ということで興味深いツイートを見つけたので転載します。

 

 

 

 

僕はこれを探究というものがどういうものかを表しているのかなあと思います。つまり、自分があるプロセス(面白い、わくわくする)に入る活動が、派生的にクリエイティブになるということです。最初からクリエイティブ目指すと、むしろ継続がおこるために必要な面白みや動機がそがれる気がします。

 

クリエイティヴを目指さないからクリエイティブになるというと逆説的になりますが、「クリエイティブを目指す」クリエイティブはあくまで既知の範囲ということになるでしょう。そこを前提にしていると見えるものや態度が限られる。「クリエイティブになる」ということがおこったときの「クリエイティブ」は、前者のような態度が抜けたときにおこりやすいのではないでしょうか。

 

パラダイムを変えるクリエイティブな研究は論文には似合わない。研究者を評価するときに論文だけを重視すると、クリエイティブな研究は生まれなくなる」というのも興味深い指摘です。

 

たとえば、すぐれて「客観」的な言動というのがあったとして、それは豊穣な主観がある形式にそって削がれたものととらえることはできないでしょうか。「客観」はあくまで主観の豊穣さに依存するものであり、痩せた主観からは妥当な「客観」も導き出せないのではないかと思うのですが、上記の論文だけを重視することというくだりからはそのようなことが思いおこされます。

 

ジャンル難民学会という名前にするか、野良探究学会がいいのか、草の根探究会にするのかとか、名前を色々考えていますが、ともかく、自分の世界を更新し、豊穣にしていく探究という営みのほうを重視し、その営みが活発化する枠組みを考えたいと思っています。