降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

12月7日19時〜 ジャンル難民学会発足ミーティング

12/7(金)の19時〜、本町エスコーラにて、ジャンル難民学会(仮)発足ミーティングを行います。

 

ジャンル難民学会(仮)発足ミーティング

 

アカデミズムや既成の分野に必ずしもこだわらず、個々の人が自分の核心的な探究や研究を発表する場を作ります。

 

◆ジャンル難民学会(仮)発足の趣旨
・個々の探究者たちがお互いに出会うことによって、それぞれの探究が刺激され、促進される環境をつくる サロン的な場づくり
・それぞれの探究に関心をもつ人たちの裾野を広げる 探究環境の畝づくり
・個々人が自分なりの探究することの重要性を理解する人を増やす 社会の土壌づくり

 

◆話しあうテーマ
・参加者それぞれの探究はどのようなものか。
・また探究を促進するためのニーズはどのようなものか。
・どのような枠組みのデザインが最も自由かつ生産的か。発表の場開催をどのようにするか、普段の探究環境にどのように繋げるか、名前をどうするか(ex.草の根探究学会、)
・今後の活動計画など

 

 

映画「ネバー・クライ・ウルフ」の原作者であるカナダの国民的作家ファーリー・モウェットは、自身がフィールドワークを行いました。そこには世間で信じられていたオオカミ害獣説とは全く逆のオオカミの姿がありました。大型草食獣カリブーを減少させると思われていたオオカミは、病気や弱った個体を主食とし、むしろ病気の蔓延を防いでカリブーを守る役割を果たしていました。

 

彼もまた既存の枠組みでは自身の探究が難しい人でした。
彼は生きている生物を研究したかったのに、当時それは時代遅れのものとされていました。彼は結局自分自身の関心を追究するために研究職になることを諦めました。

 

私の個人的好みは、生きている動物を生息地の中で研究することに向かっていた。融通の利かない人間だったから、生命の研究を意味する「生物学」という言葉を額面通り受け取っていたのだ。同級生の多くができるだけ生き物から遠く離れ、死んだ動物、さらには、本当に命のない資料を用いる無菌状態の研究室に閉じこもる方を選ぼうとする逆説に、私ははなはだ当惑した。事実、私が大学にいた頃は、たとえ死んでいても、動物そのものを扱うことは流行遅れになっていた。新しい生物学しゃは、統計的、分析的な研究に専念し、生命の生の資料など計算機を養う飼料に過ぎなかった。
 私が新しい傾向に順応できなかったことは、専門家としての将来に好ましからぬ効果を及ぼした。『ネバー・クライ・ウルフ』

 

彼の発表はその後の学問にも影響を与えました。今、自分の探究の社会的受け皿がなく、収入になることがなくても、その探究を個人にとどめるのは勿体無いのではないでしょうか。そして、もしこの広い世界に自分の探究が話しあえる人がいるなら、探究のプロセスはさらに豊かに実りあるものになるのではないかと思います。

 

◆よびかけ 〜既存の枠組みをこえて、個々の核心的な探究をしていくために〜

 人は、たとえ自分でも気づいていなくても、それぞれに自分の根源的な問いを持っているのではないでしょうか。何かを研究したいとか、探究したいとか、そういうつもりもないのに、どういうわけか興味をひかれ、引き寄せられることがあります。生きていくなかで、そのことに関わることに出会い、 自分のなかで何かが確かめられていく。パズルのピースが集まっていくとやがて絵柄となって現れてくるように、自分にとって根源的な問いが輪郭をもってみえてくることがあります。

 

 哲学者の鶴見俊輔は、人は生まれてくるやいなや問題に投げこまれ、問題を背負わされ、問題を探りあてようとし、問題と取りくむ、といいます。ただ自分にとってのその問題は学校や大学という場ではかっこのなかに入れられ、学問の外に置かれてしまうとも指摘しています。また、自分の根源的な問いへの応答をすすめていく探究は、既存の学問のなかに接点をもつ分野があったとしても、自分の問いの核心に向かおうとすると、分野の狭間になってしまったり、多分野にまたがってしまい、評価される範囲から外れる研究になってしまいがちではないでしょうか。

 

 武術家の甲野善紀さんは古武術を研究され、そこで得られた知見や斬新な身体技法はスポーツから介護まで様々な分野で今までにない効果をもたらしています。甲野さんの個性的で核心的な探究は社会に大きな豊かさをもたらしています。また、甲野さんの興味範囲の広さ、60歳をこえて踊りをするようになったというような新しいものと取り組む生き生きとした姿勢は強く印象に残ります。しかし、その姿はもともとの気質もあることでしょうが、少なくない部分が、自分の核心的な探究をすることによってもたらされているのではないかと私は思うのです。

 

 探究は人と世界の出会いをおこします。探究のなかで人は刷新され、更新され、新しくなります。そして探究を通して必要な人、新しい人たちとつながりをもっていきます。個人は探究によって、より生き生きとした世界との応答関係を育てていくのではないでしょうか。自分にとっての核心的な探究は甲野さんのようにやがて今まで想定されてなかった豊かさを開拓するような可能性も持っているとも思います。しかし、将来的に役に立つか否かという基準で、ある探究をしたりしなかったりするのを決めてしまうことは、生きること、世界との関わりをひろげていくことを犠牲にすると思います。

 

 個人がその核心的な探究をすすめることは、その個人にとって大きな意味があります。そこからは大きなエネルギーがやってきて、そして自分をまた新しい世界をひらく行動に導いていきます。また、社会福祉法人浦河べてるの家からはじまった「当事者研究」では、それまで専門家に受動的に従うしかなかった精神障害を持った当事者たちが自分を研究する研究者になることで主体化され、仲間との関係性が育ち、生きる環境が変わっていくことが知られています。探究は治療的でもあり、自分自身に閉じず、世界との新しいつながりを派生させていきます。

 

 しかし、探究や研究は一般には職業的専門家のものだと思われており、個々のささやかな探究は周りのごく限られた人だけにしか知られておらず、世間に認められないことを探究する姿は変わった人として受け止められ、肩身を狭くしているのが実情ではないでしょうか。ですがもし、核心的探究をする個々の見えない探究者たちがその姿と探究を見せる舞台が世界にあるなら、そこには探究者の価値を理解する人たちが現れるのではないかと思います。

 

 あるいは、世間に認められていない探究をしている探究者こそ、自分とは別の分野の探究であっても、その価値を理解し、応援する存在となりうるのではないかとも思えます。何しろ、直ちに役に立たないような探究や決まった分野におさまらない探究をしている人たちは、様々な別の分野から自分の知見を刷新する情報に飢え、感性を発達させているからです。核心的な探究者たちは、世間の損得とは独立した、他者や世界に対する純粋な知的好奇心を備えている場合も多いのではと私には思えます。

 

 アカデミズムの内外にこだわらず、直ちに役に立つか立たないかという性急さも一旦脇に置き、のびのびとした個々人の核心的探究が促進される場、個々の探究者がお互いを活性化する場、そして自分にとって重要な探究をすることが全ての人にとってごく当たり前のこととなるような環境づくりをしていく場を探究者たちと共につくっていきませんか。

 

◆参考文献・URL

荒木優太『これからのエリック・ホッファーのために 在野研究者の生と心得』

菅豊『新しい野の学問の時代へ 知識生産と社会実践をつなぐために』

礫川全次『在野学の冒険 知と経験の織りなす想像力の空間へ』
鶴見俊輔『共同研究集団』

 

在野に学問あり 第1回 荒木優太

http:// https://www.iwanamishinsho80.com/contents/zaiya1-arakiyuta