降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「愛されていない」という死への拒絶 『その後の不自由』とメンヘラ.JP

「自分など価値はない」のなかには、どれほどの高いプライドがこめられていることだろうかと思います。

 

これは世間の価値基準を自分のなかに取り入れ、それが自分を圧迫していたとしても、その基準を自分は理解しており、それを自分に課しているという表明です。

 

価値を奪われて、追い詰められた人がかろうじてしがみつけるのは、世間の価値基準と思っているものを理解し、遵守する自分なのであり、遵守できない自分を強く否定し、罰することによって、世間に認められる部分を作り出しているのだと思います。

 

上岡陽江さんの『その後の不自由』に、自分は愛されているという信念は何が何でも守り通されなければならず、愛されていないことは決して受け入れられないということが書かれたくだりがありました。今、愛されていないという感覚をもち、自分を悪いと思い責める人は、自分の悪い部分がなくなったら愛されるはずだという信念を守るために、自分に悪い部分を見つけだし、愛されていないという破局の認識を拒絶するために自分を責め続けなければいけないのです。

 

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内在化した世間の価値観への強い遵守によって保つ自分のプライド。人に否定され、価値を奪われれば奪われるほど、反面のプライドは高まらざるを得ません。あえてハードルの高いような世間の基準が自分のなかに取り入れられ、その「当然の」ハードルを自分は超えられないのだと信じ、表明することによって、「そんな高いハードルを設定しているのだ」と人に思われ、それは評価されるはずと信じるのだと思います。

 

自分には実現できないような他者の高いハードルを自分に設定することによって、受け入れられ、愛される自分が想定され、「愛されていない」という破局の認識を意識に侵入させることを拒否することができるのです。

 

世間(そして現政権)の価値観は弱者を排除することだろうと直観し、その価値基準への忠誠を表明するように実行した事件がありました。追い詰められれば追い詰められるほど、その価値基準への過剰な忠誠を証明せざるをえず、そのことによって押し寄せてくる「愛されていない」という認識の拒絶をせざるをえないのだと思います。

 

不安に陥るたびに自分を責めることによって、自分を見つめるまなざしに対して忠誠を表明し、そのことによって「本来なら愛されているはずの自分」を意識の裏でありありとイメージし、一瞬の救いを得るということを強迫的・自動的に繰り返してしまいます。

 

「自分に価値はない」は、自分の最後の砦を守るために構築された強力な防衛システムですが、同時に自分の世界の見え方を更新する機会も奪います。世界の見え方や感じ方が更新されるには、今の自分に見えているイメージの世界の外に踏み出し、イメージがイメージだったと知り、今のイメージが即リアルだと認識し、反応している状態を終わらせることが必要だからです。しかし防衛システムが作りだすイメージは、破局を避けるためにイメージの外に踏み出すことを死(=愛されていないことの確認)だとささやき、イメージのなかにとどまらせようとします。

 

そこから出ていくことは、応答を繰り返すことによって可能となると思います。本当ならばこうしたい、本来であればこうありたいという状態や状況をほんの僅かからであっても、自分の周りに引き寄せ、整えていくことがそれに該当すると思います。

 

そんなことには意味がない、と不安になれば防衛がやってきますが、不安がされば結局また求めが続いていることがわかると思います。防衛の言うことに服従するのではなく、求めに対してどんなに小さく些細な実践であっても、応答していく。求めは自分というよりも、自分のなかの他者、一人称である「わたし」としてよりも、二人称の「あなた」としてあるようです。

 

「本当の自分」というような呼び方もあるかもしれませんが、一人称で理解すると防衛なのか、求めなのかわかりにくく、既知の自分をベースに捉えてしまったりしがちかなと思います。

 

メンヘラ.JPの投稿で、いろりさんは、部屋の片付けを自分でしなければいけないとか、自分の「ため」に他者の援助をともなって片付けをすることに強い抵抗感を覚えます。ですが、本来あるべき状態に応答するかたちで手伝ってもらって部屋の片付けを終えます。

 

私は今まで、今とは違う薬を飲んだり長期間何もせず休んだりすれば何かが変わると思っていた。だってうつを治す方法としてどの本にも書いてあることだし、私は自分のために労力なんて使いたくなかったから。

家を出ることや母から離れることはさんざんいろんな人から言われてきた。それが最良かつ最終手段だということはわかっていたけれど、どうしても自分にできると思えなかった。経済的にも家事能力的にも精神的にも。

“自分のために”大金を使って部屋を借り、家賃を払うために働き、“自分のために”食事を作る、洗濯する……そこまでして自分を生かしたくなかったし、生かす努力ができるか不安だった。

けれど死ぬこともできない。どうせ生きるならもう少し楽になりたい。クリニックを変えても言われることは同じだったし、母の傍にいながらできることはもうすべてやったはずだ。

家を出てひとりで暮らすことが一番よい治療方法なのだと私は覚悟を決めた。

 

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