降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

サトウアヤコさんの「回路と迂回路」へ

サトウアヤコさんの「回路と迂回路」に参加した。

 

回路と迂回路 – “学び”と”苦手”について考える – | 2畳大学

 

サトウさんは、学ぶこととは回路を作ることではないかという。「苦手なこと」をテーマにして、そこに「迂回路」という回路をつくってみようとする。ここでの「学ぶ」は、ある決まった対象に取り組んで習熟していくことを指しているようだった。

 

そこで苦手だというのは、そもそも自分のいつものやり方でやってダメで、別の考えつくやり方でやっても効果がないという状態を繰り返していて、そこへ取り組むとイメージするだけでも忌避感や嫌悪感が発生しているような状態なのだろうかと思う。

 

既に忌避感や嫌悪感、見たくない反応があるため、地について進んでいったり、工夫を見出していくような思考もおこりにくいという悪循環がある。

 

ワークで、何が苦手かというのをまず書き出してみると、頭のメモリーがその分解放される。自分のなかのものを見ながら解決方法を探るより、外に出た言葉が向こうから向かってくるほうが複数の対応方法がすっと浮かびやすくなる。頭のメモリーを占拠しているものを解放して、スペースを確保すると洞察がおこりやすくなると思う。

 

次に他の人がその苦手を乗り越えるためにやっている王道的方法は何かを書き出す。サトウさんは、苦手なことの解決方法について、自分がどこかに「正解」があると無自覚に前提してしまっていて、その正解を探している間は、習熟は前進しないことをが多いという。

 

直ちに鮮やかな「正解」を求めるというのは、苦手意識の反動なのかなと思う。1秒も考えたくない状態に陥っているので、直ちにそれが済む方法しか考えようとしない。だがその状態は既に回避にはいっている状態。精神は習熟ではなく、自動的に苦しみの逸らしに向かっていて、地に足がついた想像や歩み出しはおこらない。

 

日常で、苦手なものはそもそも思い出しもしないような状態になる。それは自動化する。見たくないものは自然に見えなくなっていく。次にその回避状態があるかどうかを書き出し、振り返ってみる。

 

その後、今まで書いた「苦手」「王道」「回避状態の認識」のカードをB4ぐらいの大きな紙におき、全てがひとまとまりとして意識に入る状態で、苦手であっても成り立つあらゆる状況を想像し、今度はカードではなく、大きな紙の空いたスペースに書く。その時間はドラえもんに道具を出してもらうなら、と楽しみながら想像する状態になる。

 

思考というのは、だいたい堂々めぐりをするものだと思うけれど、苦手なものは何か、それに対応する「王道」は何か、回避状況はどうなっているかという手順を踏むことで、思考のいつもの堂々めぐりができない状況をつくっているのかなと思う。

 

思考が往々にして通るプロセスをあらかじめそうさせないようにしておいて、最後に思い出すのも嫌で縮まっていたその苦手なものとの思考の接触面積を万能感をもってひろげる。そこに他の参加者のポジティブなアイデアの提供が重なり、そのことを考えることが楽しいような錯覚を経て、回避反応しかなかったものが変化し、その接触を維持できるようになる。するとできることを組み合わせてそこにたどり着くというような地に足のついた働きかけがおこるのかと思う。

 

さて、ここまで書いてきて、苦手というのは意識で強制的にやらされたことに対するうんざりした嫌悪の反応であって、もしそこまで強制的にやらされなかったり、やるべきものとか思い込まなかったら、回避反応をおこさずに必要ならいつか自然に習熟するようになるのではないかと思った。

 

サトウさんは、人の意識状態がどうであるのかということにとても意識的だなあと思った。どのような作業をするとどう意識状態になるのか、思考プロセスにおいて、何が停滞要因なのか、停滞要因をあらかじめ取り除いて思考するにはどうしたらいいのか、今まで書いたものを単に並べるだけではなく、大きなB4の紙におくことによって、それぞれのカードがひとまとまりのものと認識され、置いていく順番が時計回りになっていて、起承転結みたいになっていたり、最後は小さなカードではなく、大きな紙の空きスペースに書くのでより広がりのある発想になりやすかったり等々。

 

今回はアレンジバージョンだったとのことで、スタンダードなカードダイアローグの会もまた経験できたらと思う。サトウさんの折々の分析の言葉はとても面白かった。