降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

防災DIY紹介文について 

防災とDIYの組み合わせ、特に変わったようなことは何もないように思われるかもしれない。

 

居場所、対話、学び、回復など、それぞれ個別のワードに関心がある方面にもピンとくる人は少なそうだ。

 

僕は畑をやっているけれど、はっきりいって作物づくりが専門なのでもないし、作物づくり自体をずっと探究していきたいわけではない。またDIY的なものづくりが大好きなわけでもない。なぜ防災とDIYなのか。

 

臨床心理学科にいって、心理カウンセリングの構造に疑問を抱き、別のあり方で人の変化や回復がおこらないかと考えてきた。防災とDIY、僕のこれからの運営の如何もあるからポシャるかもしれないが、これがその考えてきたことへの答えだ。

 

心理カウンセリングにはいくつか問題がある。一つは、問題を社会ではなく、個人の心に帰すること。心理カウンセリングには社会自体を問う哲学がない。つまるところそれが目指すのは現体制への適応だ。

 

適応の何が悪いと思うかもしれないが、社会の歪み、構造の歪みを問う視点がないのだ。生きることに悩んだ当事者はこう思うだろう。結局、適応が大事なのかと。適応してお金を稼ぐことなのか。あからさまに言わないまでも、結局それが「心の専門家」の価値観なのかと。壊れた機械をなおして社会の歯車に戻すことが「心の専門家」の役割なのか。

東畑開人氏は、2000年代に心理学ブームが下火になって出てきた言葉が「生きづらさ」だという。これは個人の内面が問題なのではなく、問題は社会要因なのだということに社会も直観的に気づきはじめたのだと思う。

 

 

壊れた心を直し、元のように人を稼働させるための心理カウンセリング。そういうところで、僕自身は人間が深い意味で回復するように思えない。働けるか働けないか。その価値観を超えるものを僕自身が発見するところに回復があるのではないか。世界理解による回復だ。


ネバー・クライ・ウルフという作品がある。研究者がカリブー(トナカイの一種)の減少の原因を調べに現地に赴く。その頃世間ではオオカミが原因なのだと思われていた。6ヶ月の現地調査のなかで、オオカミはネズミを主食としており、カリブーを襲う場合も病気の個体を襲っており、むしろ病気の蔓延を防ぐ役割を果たしていたことがわかる。

 

子どもの頃に見た映画だが、主人公が裸で平原に走り出て、オオカミの食べたカリブーの骨をポキリと折るシーンを記憶している。ポキリとすぐ折れるほど骨がもろくなっているのだ。つまりそのカリブーは病気だった。オオカミはむしろカリブーを病気から守る役割を果たしていた。

 


Never Cry Wolf (1983)

 

この時の主人公の喜びはいかほどだったろうか。オオカミに近づくために、同じものを食べようとネズミまで料理して食べたりもしていた。あるオオカミとどこか友情のような関係も結んでいた。

僕自身が不登校やフラッシュバックなどの当事者として、世間に溢れる言説の適当さ、まことしやかに語られる見識の無責任さは驚愕の水準にあった。馬鹿げた言説が堂々と語られ、まかり通っている。まるでこのオオカミ害獣説のようなものだ。

 

僕はある意味、この主人公がオオカミがネズミを食べること、病んだカリブーを間引く役割をしていることを自ら発見したように、自分で世間で言われているような価値観がどんなに適当なものなのかをはっきりさせようとしてきた。世界がどうなっているのかを理解することによる回復を求めてきた。

僕はやがて治療者と患者という構造それ自体が、そして治療や回復自体を目的化すること自体が変化のプロセスを停滞させる要因でもあるという認識にいたった。それらは他に仕方がなく行われる場合もあるが「下の上」といったアプローチだ。もし選べるなら、別のあり方のほうが変化や回復のプロセスはもっと自然に、速やかにおこりうると今は考える。

それぞれの個人は無自覚であっても、根源的な苦しみに動機づけられている。その苦しみを乗り越えることにつながるようなことに自然と関心をもち、充実感を感じる。鶴見俊輔はそれを「親問題」という言葉であらわしていたことを後に知る。根源的な苦しみは、ハンディではなく、むしろ自分を勢いづける力の源だ。その力を使って、生きることを開いていくことができる。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

自分として生きていくことをバックアップしてくれるのは根源的な苦しみに対する反発力だ。それは生きものがもともと備えている構造でもある。山の北側に生えた木は、そのそこならではの環境の困難に対し、強力に反発して自分を形成していく。よって、建物に使う場合も、山の北側に生えていた木は建物の北側に使い、南側に生えていた木は建物の南側に使うのが建物をもっとも長持ちさせるあり方であるという。

 

バランスを崩そうとするものに対する強力な反発力が生きものには備わっている。その求めに応答することによって、個人は必要な踏み出しを行い、世界からエネルギーを獲得することができる。

 

その力を前提に、次はどのような場が個人の回復に寄与するのかを考えていった。人が変化する場には、安心安全信頼尊厳といったようなものが必要とされる。それは恐怖や自分に内在する強迫が打ち消されている場といえるだろう。そのような場は学びの場としてもふさわしい。「治療」の場と学びの場は別々のものではないというように思うようになった。

 

四国遍路を行い、人は適切な環境と適切な媒体があれば自律的に回復に必要な行動をおこしていくという認識になった。次に、そのような適切な環境や適切な媒体をどのように引き寄せるかという問いが現れた。多くの人は、いずれツケを払うようなことになるにせよ、自分の内にある根源的な苦しみに根ざす求めに応答するよりも環境に場当たりに適応するほうがやりやすい。根源的な苦しみに根ざす求めは感じにくく、そして応答しようとすれば面倒で、今の環境の体制に反するようなことを求めるからだ。

 

環境への場当たりの適応に終始することで、歪みを受けている人たちの体は、変化を求めている。歪みによる圧迫が強ければ強いほど、変化の可能性にも開かれているのだが、移行できる選択肢がない状況では無理矢理でも同じ環境に埋没しようとする。

 

サードプレイスと呼ばれるような場所は、現在の環境に雁字搦めにされている人たちがその縛りを一瞬緩めることができる場だ。ほぐれることができる場では、自分のなかの自律的な求めが浮かんできやすい。だがそれだけではまだ不十分だ。なぜなら個人の思考や行動は多くの部分、社会に侵食されており、古い環境の価値観を内在化させているからだ。

 

内在化したものをどう取り除き、更新していくのか。それを可能にするのが自律的空間と自律的な行動だ。今の社会で個人は、他者によって規格化されたものを与えられ、その与えられたもののなかで生きる。しかし与えられたものは本当には自分にはフィットしておらず、違和感や不満、世界への信頼の疎外、必要な変化のプロセスの停滞がおこる。

 

それに対して、より自分にフィットした空間や人間関係、時間の過ごし方などを自分に引き寄せていく。他者によって規定された生活の枠組みに働きかけ、より自分の根源的な苦しみに根ざす求めに応答できる環境を構成していく。自分の必要にあわせてカスタマイズされ、フィットする空間は自律的な求めに基づいた行動を誘発させる。この繰り返しをするなかで、個人は内在化された抑圧を脱して、自分にとって必要な環境と媒体を自ら作り出していくというサイクルに入る。

今、自分に必要なものを模索し、探究し、感じとり、応答する。このサイクルのなかにいるとき、個人は回復のプロセスにある。このサイクルにあることは、手段であるとともに目的でもある。甲本ヒロトがバンドが目指すところがなく、そこが到達点だというように、このサイクルにあることが実のところ既に達成なのだ。何かが完遂されることによって「幸せ」なりがやってくると思うのは間違いで、この変化のサイクルが動いていること自体が生きることの充実だ。達成したあとではなく、プロセス、移行状態にあることが生の充実なのだ。

 

ロックンロールバンドがね 目指す場所はないんだよ 

小学生でも中学生でも高校生でもいい 

たとえばホウキでもいいんだ 

ギター持ってなくてさ ロックンロールに憧れて 教室の隅っこでワァーってなる 

すっげぇ楽しいんだ そこがゴールです 

そこにずっといるんだよ そっからどこにも行かないよ 

それが東京ドームになろうが教室の隅っこであろうがそんなの関係ないんだ

 ロックンロールバンドは もう最初から組んだ時点でもうゴールしてんだ

目的達成だよ 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

「治療」という言葉には既に強迫が含まれている。悪いことになっているからこそ「治療」が必要なのだ。だがそこに否定をいれることによって、変化のプロセスは停滞する。自意識の強迫が外れている時、打ち消されている時にこそ変化のプロセスは動きだすのだから。「治療」よりは「学び」のほうが言葉として強迫が少なく、妥当だろう。「治療」のための場、「回復」のための場、「みんなの居場所」などと銘打つほうが、「そうしなければいけない」とか「あるべき姿」を感じさせ、より強迫的な場になる。

 

だから変化のプロセスがスムーズにおこる場にしたいとき、強迫性が強い「治療」とか「回復」とか「成長」とか、そういう言葉はいれないほうがいいし、「変化が目的です」などと趣旨にあげないほうがいい。強迫的なことが打ち消され、意識にのぼらないような場が一番回復的な場であり、変化のプロセスがおこりやすい場だ。

 

防災は、全ての人が被災者であることを想定させる。全ての人が今持っている財産やステータスが機能しなくなった状態では、ステータスが揺るぎない日常の場より個々人は平等になる。老いも若きも関係なく、皆が被災者だ。防災という文脈においては、非常に多様な人たちが関わりあう基盤が生まれる。

 

オルタナティブな運動や催しには、限られた人しか集まらない。環境、DIY、持続的な社会・・、そういったものは理念は良くても、決まった人しか来ず、一定以上に広がりにくい。だが、防災という文脈なら、そういう分野や区分を超えた人々が出会い、関わる広い基盤が生まれる。戦略的に、それぞれの分野を一番上に掲げず、防災という文脈のもとに置くことで、逆に人が集まる入口が生まれ、活性化するのではないかと思っている。

自律的活動、DIYの広がりが個々人を個々人として活性化させ、変化や回復のプロセスがすすみやすい環境を生む。治療せねばとか回復せねばとか意識せず、より個々それぞれに自分たちの求めにフィットした自律的な空間を構成し、自律的な行動を誘発させることが、変化や回復のプロセスをスムーズにする。

 

DIY、自律的空間づくりとそこに誘発される自律的行動の循環、そのサイクルに入ることが手段であり、到達点でもあるのだが、ただそれをしましょうと呼びかけたところで寄ってくる人は少ないし、目的化すると硬直してプロセスが停滞する。

 

病院の待合ベンチが話しが弾む居場所になるように、そこに関わる必然、そこにいる必然を提供し、派生的に交流が生まれる、自律的な関わりが生まれるというかたちが理想的だ。本当の意図をそのまま目的化すると強迫が生まれ、人は硬直したり抵抗が出たりして、自律的に生まれてくるもののプロセスも停滞する。

病院の待合ベンチ、喫煙場所、あるいはたむろできるコンビニ前のように、多くの人に関わる必然を提供するのが防災という文脈だ。DIYだけの呼びかけでは多くの人が関わる必然は発生しない。

 

心理カウンセリングへの方面には進まず、人の変化を探究した結果が、今、防災とDIYの組み合わせになっている。