ツイッターにおける数千、数万のリツイートやいいねは投稿者にとって強い刺激になるだろう。だがその強い刺激の代償は大きすぎないだろうか。
ツイッターは湧き上がる感情の投げ込み場所だ。そしてその感情をすぐに拡散できる仕様は多すぎる人に届く。
ツイッター上で扇情的な論争があると、多数の第三者が扇動され、論争は暴力的な言動をする層まで届く。そして非常識で無秩序な攻撃が派生する。感情の投げ込み場所であるツイッターでは、論争自体の意義は置き去りにされがちだ。
論争がおこるとごく自然に、想像上の「自分たち」と、一方の意見の異なる「相手方陣営」が勝手に想定され、その想像上の陣営同士が「こいつは相手方だ」と勝手に個人を「認定」して巻き込みながら「相手方陣営」を攻撃する。もはやそこでの関心は団体戦の勝ち負けになっているようだ。
この想像上の陣営闘争のなかで、情報は伝言ゲームのように不正確になり、無責任になり、劣化していく。お互いに不正確なこと、間違いをする「相手方陣営」の人を発見しあげつらって、その人が「相手方陣営」の愚かさや間違いを代表する人として攻撃する。同時に勝手にひとまとまりの全体として想像されている「相手方陣営」の理不尽さに怒りを掻き立てる。
何百万、何千万人も利用者がいれば、どんな人もいるだろう。一人をあげつらって想像上の「相手方陣営」をあざけり、攻撃し、あるいは相手方に怒り狂うことは、冷静に見ればツイッターの仕様にいいように駆り立てられ、遊ばれているのではないだろうか。
捨てアカなどもできる匿名性を備え、多数の感情を素早く動員する、感情の投げ込み場所であるツイッターは、一つの論争がおこれば多くの人の感情を巻き込み、想像上の「相手方陣営」と闘いを勃発させる。
論争の尻馬に乗り、ここぞとばかりに暴力的な言動を相手に叩きつけるアカウントを見ると、その動機はもはや論争の内容などではなく、相手を蹂躙して自分を鼓舞することができれば何でもいいように思われるものが現れている。
感情の投げ込み場所としてのツイッターは、そのような純粋な暴力的衝動の発散ともともと親和性をもつのだ。そしてそのような暴力的な言動は場の基調をつくる。ツイッターは対話の舞台ではない。対話は暴力が跋扈するところにはおこらない。