降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

筒井康隆『旅のラゴス』一抹の夢としての生

最近ははてなでSFを検索して気になったものを図書館で借りて読んでいる。

 

1文字1文字読むのはしんどいし、読めないところはさっさと飛ばして読むことにした。読めないなりに読む工夫をしようと思う。

 

特に事物の描写とかはとばしている。そういう部分は全く興味がわかなくて負担だけになってしまう。

 

ネタバレ的なことは自分には全く問題ない。話しがみえなくて読む動機がなくなるならWikipediaなり何なりで、あらすじとか終わりまで含めて要約してくれているようなものを読む。

 

機械的な感性の自分にとっては、何がどうしてどうなるのかが分かればいいし、そこを楽しんでいる。詩とかも情緒系のものははいって来ない。児童文学も好きだが、小川未明みたいなのは読みにくい。宮沢賢治はまあまあ読みやすい。

 

旅のラゴスは、検索して高評価の紹介があったので読んだ。

niseco.hatenablog.jp

 

北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か? 異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。 

 
パラパラと読んでいて、80ページぐらいで読み続けにくくなったので、どこかに内容がないか検索した。章ごとに話しが要約されている自分にうってつけの記事があった。

 

merkmal-for-someone.hatenablog.com

 

「銀鉱」のという名の章を飛ばし読みしていたが、こういう話しだったのかと思うと興味がわき、いい感じで読み直せた。こういう時は、先にストーリーがわかっていたほうがよかった。読まなかったら読み続けられなかったかもしれない。

 

話しは12章あるが、最初は若いラゴスが途中で奴隷になって7年間苦役につかされたり、ある時は王様になったりしながら年をとっていく。それぞれの章ごとに一区切りする物語になっていて、銀河鉄道999みたいな感じだ。ラゴスは旅を自分の使命だと感じており、最後は68歳になるが、せっかく戻った故郷も後にして、周りには死出の旅と思われる旅におもむく。

 

あまり入り込めずに終わるかなと思ったけれど、それぞれの章は夜にみる夢のようでもあって、そう思って読むと味わえた。

 

ラゴスが王様になる章で、ラゴスは二人の妻を迎えるのだが、そのうちの一人は森を走っているうちに、少し地面から浮遊して移動できるというくだりがあった。僕も自分の夢のなかでは泳ぐみたいに浮遊することができる。それは懐かしい感じがする。ああできたんだと思う一方で、当たり前のところに戻ってきたとも感じている。そこは許された世界であって、自由を感じる。

 

最近は浮けるからこれは夢だなとわかるときもあるようになった。そういうのを明晰夢というらしいが、夢だから困ったな、これからどうしようとか思ってしまうと砂嵐になって夢が終わる。

 

そういえば、週末に行っていたクィア映画祭は、聾(ろう)とセクシャル・マイノリティ特集だったのだけど、聾者と健常者のゲイカップルの作品があった。その作品は発話も字幕も一切なくて、基本BGMが流れていて、シーンごとの音は聞こえない。沈黙の世界を感じられた。沈黙の世界は落ち着くなと思う。その時も懐かしさを感じる。

 

ラゴスは、ある場所に何年か滞在しても最終的にはそこを後にして旅に出る。手に入れたものを捨てていくし、大事に持っていた研究書なども奪われたりして裸一貫になる。超越的な態度になっていて、何かを手に入れたくないというわけではなくて、旅に出るときは故郷に帰ろうとか、デーデという理想の女性と一緒になることを求めて出立するのだが、故郷には落ち着けなかったり、デーデには出会えなかったりということになる。

 

所有していると思うものも、実は所有などできず、ある時突然の別れがくる。その時に、自分は何も持ってなどいなくて、ひとときの関わりだけがあったということが実感されるのだと思うけれど、ラゴスがそれぞれの地域で得たものを捨ててすっと別れるとき、その何も持っていないということの儚さが感じられるようだ。

 

ただラゴスは学究の徒であり、知識だけは持っている。その知識を使って行く先々の場所を発展させたり、役に立ったりはする。そういうところをみると、なんとなく、この物語は、作者自身の夢でもあったのかなと思う。馬で空を飛んだり、壁を通り抜けたり、瞬間移動したりという超能力の世界はこの世界にはないのだが、それらを実際の「現実」ではなく、感じられるリアリティとして感じること。異世界に出会ってそこを経験していくこと。生を一抹の夢として体験すること。

 

自分自身に立ち戻り、自分は今後面白い活動を展開していくことができればいいなと思っている。在野の研究者、探究者たちが集まる場所をつくり、こころゆくまで関心のあることを探究し、世界の奥行きを感じたい。そう思うと同時にそんなところを作れる器量はなくてしぼんで世の流れから捨てられていくかもしれないなとも思う。

 

獲得とは所有のことだろう。こうでなければ自分は面白くない、救われないと思うのは、所有へのこだわりであり、その思考自体もまた所有であるのだろうと思う。「こうでなければならない」という思考自体が所有なのだろう。今はその所有の圧迫が強い。