降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

なんとなく振り返る

ふりかえり。

 

SNSに文を投稿したりするが手応えがない。さっさとやめればいいのだが、つい書いてしまう。なぜ書くのか。

 

思いついたことは書いてしまいたい。また人にみせる感じじゃないと動機がわかない。だが自分と誰かが通じるということはなかなかない。通じるところでラリーするようにやりとりできる人が現れたらいいのに、と思っている。

 

基本的に怒っている人なんだと思ったと言われた。その人は肯定的に言ってくれたようだったが、まあ自分の動機は世間の欺瞞を明らかにして否定するというところが大きい。欺瞞を糾弾するとき、どこの誰かと共にいるような気にもなっているかもしれない。

 

欺瞞を攻撃する動機は、どこからくるのだろうか。うだつのあがらないみじめさとか、世界のなかでの自分の無力さみたいなところだろうか。

 

福祉なり、教育なり、マイノリティなり、自分の関心と接点をもつ人たちがいる。だが、あくまで接点だ。自分は社会のシステムがよりよくなって、上手く回るようになったら、人々が幸せになるとか全然思っていないから、ある部分は話しがあったとしても、長くラリーが続いていくということがない。

 

とはいえ、そういう接点において、ひと時だけでも妥協なく面白い話しのやりとりができることで、生き延びる力を回復してきた。新しい人と出会い、少しだけ生きている世界がひろがってきた。今までのなかでは一番恵まれた環境になっている。

 

しかし、同時に疲れている。活動の今後をどうしようかと思い、ああいう準備とかこういう準備をしておこうと思うが、やる気がでない。ずるずるとやることが延びたり、何もしないまま一週間が経つ。こういう調子では何も展開していかないのではないかという思いが大きくなって、だんだんと削られていく。

 

何か的を外れたことをやっているのだ。あるいはやっていけない強迫が強すぎるのか。

 

ふとここ最近を思い出すと、通じそうで通じないときの失望みたいなのが数件あったような気がする。そのダメージもあるかもしれない。