降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

話しの場を探究する集まり

話しの場について探究する場を幾つか持つことができた。何らかの意図を持ったうえで、場がどうなっているのかをつかもうとすることは、夜に電気のつかない知らない建物に入っていって、手探りでそこにあるものやその全体の構造を確かめていくようなことだと思う。

 

その建物では空中にモノが浮かんでいて、直ちにわからないにせよ、何がしかの法則のもとで動いている。暗いなかで手で触ってこれだと思ったものが、実際にも想像した通りのものであるかはわからない。違う場合もある。だがそれが本当に明らかになるまで、それが何であるかの判断を保留するわけにもいかない。

 

その建物には何度も入ることになる。とりあえずであったもの、触ったものが何であるのか、どういうものであるのかは仮説的に位置づける。その仮説がないといつまでたっても先のことを確かめることができないのだ。妥当か、それとも間違っているかを確かめるためにも作業仮説として、位置づけをしておく必要がある。その手探りの作業もそれぞれ見てきたものがある人たちと一緒にやれるとぐっと進む。

 

ラマ教育を実践する西田豊子さんは、人に表現が出てくる場とは安心・安全・信頼・尊厳が提供されている場だという。

 

僕はそれを強迫や恐怖・不安が打ち消された状態だと捉えている。大島弓子『ロストハウス』で主人公はたまたま発見した散らかった部屋に安心を感じる。散らかりが彼女にとってのあるべき姿への強迫を打ち消したからだと思う。それぞれの個人にとって、必要な打ち消しの要素は違う。それは逆に言えば、安心・安全・信頼・尊厳のために何もかもを全て用意する必要はなく、ある人にとって最低限必要な強迫や恐怖・不安の打ち消しだけあればいいということでもある。

 

「場の磁場」という言葉がでる。ここら辺も自分たちが先に進んでいくときには、それが実際何なのかみたいなことを科学的に証明されるの待っているわけにもいかないのだ。とりあえず感覚された限りのことでどういうものか位置づける。

 

場の磁場が生まれると、その磁場によって場にいる人は影響を受ける。そして思い出されること、話す内容が変わる。自分たちにとって必要な磁場はどのようなものか。その人の深部で自律的なもの浮かび上がり、表現され、その人を変えていくのを支持する磁場だ。

 

そのような磁場は「本当のこと」の表現、あるいは自分の根底的な「弱さ」の表現で生まれるようだ。自分の心の震えるところに接し、それを表現する。なるべくその震えに接していること、震えを深めることが重要だ。場の磁場、場の震えを深めていく。その時に生まれる表現は人を回復させ、変えていく。

 

知識や技術、方法などの話題に行くのは、震えとは逆方向になる。自意識は無自覚に震えから逃げたくなる。揺れ動かないところにしがみつこうとする。だがそれをすると場はどんどん磁場を失っていく。

 

自分の震えるところに降りていって話すこと。それが場を囲む他の人にとっても可能になりうるような場の状態にしておく。これは自分たちのなかで一つの指標となっている。悩みのようなことを話すにしても、あれがああなっていて、この人はこうなっているからこうだみたいな、構造の話しになると結局どこにもいかないのだ。それぞれの人が自分の震えとの接点をもちうる「自分ごと」に意識の焦点がむく場のあつらえ、設定が必要なのだと思う。

 

ファシリテーターをどのように考えたらいいのかという話しもあった。もちろん自分たちがイメージしているような少人数の場での話しだ。

 

場を囲む人それぞれが話しの場でおこることへの認識を持っているとき、ファシリテーターはいらない。よってファシリテーターは、場の状態、場の磁場の基調を維持する存在として必要であるものだと思う。その場に初めての人が来る場では、ファシリテーターは必要だし、オリエンテーション的なことも必要だろう。それがないと場が拡散したり、趣旨と違う方向へいったりする。

 

場を持とうとする時、とても多くのことは場を開く前から決まっている。場を持とうとする人の属性、意図、どんな場所でやるか、何人ぐらいでやるのか、部屋を使うなら椅子に座る洋室か畳に座る和室か、広報のやり方、等々。

 

誰かの場に何回もいくと、大体そこでは何となく同じ展開、同じ流れが繰り返されるのを経験すると思う。

 

やる側は、自分がどういう動機でやっているかに自分自身で気づいていなくても、実際にはその動機に基づいた動きをし、場を決定している。自分の知らない求め、知らない動機に動かされている。だからそれに自覚的になるために、なぜその場をやるのか、コンセプトを明確にする作業が大事だと思う。やってみてから確かめられることもあるのだけれど、まず既にある動機に自覚的になればその潜在する力をより生かすことができるし、気づいていない部分が多いと無駄が多くなって早く疲弊していく。