降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「迷惑をかけない」は正しいか? 自己疎外を破綻させる存在としての他者 

整体の稽古で複数の人とやるとき、自分一人だけでは出てこない動きが出てくる。社会に戻って考えると、個人が急にアクシデントに見舞われたり、事がおこったりして、周りがそれに対応するとき、普段の行動の繰り返しでない行動がおこる。

 

そしてそれはそこにあった規範や秩序をいい意味で壊していく。それがいってみればそこに環境における関係性を更新する。逆に普段通りの行動は実は閉じていて、環境を更新しない。そればかりか、環境のなかにだんだんと固まった秩序をつくっていく。

 

人間は一人で表面上の安定ができるような環境にいると、どうしようもなく自分自身を疎外してしまう。閉じた環境で同じことを繰り返せるということ自体が自分自身とその環境にいる個々人の関係性を悪い意味で固定化し、閉塞的な秩序や序列をつくっていくようだ。

 

台風は様々なものに被害を与えながらも、自然環境を更新していく。壊されたあとに別の秩序が現れ、壊された既成秩序の隙間に抑圧されていた新しい可能性が生まれてくる。残念ながらというべきなのか、人間の環境もまた、壊されないとより根本的な環境の刷新はおこらないのではないかと思う。権力が必然的に腐敗するのもそういうことだろう。田舎で中学時代の上下関係がいつまでも続くとか、ある環境が安定的であるほど、その環境下で強いものがいつまでものさばり、抑圧も強くなっていく。

 

べてるの家の向谷地さんが、世間的にみて非常に問題を抱えた人に対して「君はべてるに必要なメンバーだ」とべてるにスカウトするとき、向谷地さんは、停滞状況を変えるためには、今の秩序が成り立たなくなることが有効だと認識していると思う。困りごとがやってくる。だがそれが今まで誰も壊せなかった固まった規範を壊す。

 

「迷惑をかけない」ということを鵜呑みにして正しいとするのが間違いなのは、一つはそれが結局は今強い人がのさばることに加担することになるためだ。熊本市議会に子どもを連れていった議員がバッシングされ、いじめられ、のど飴で糾弾されるような、抑圧的な規範が維持されているのがその典型的な事例だろうと思う。

 

新しい人や新しい動きは、古いものが壊れたときに活躍の場を与えられる。よそ者、馬鹿者、若者が固まった環境を変えるのは、様々な人と上手くやるからではない。固まってしまった古い規範を壊すからだ。他者、多様性の価値とは、それが現秩序を壊し、更新する働きをもつことだ。

 

あやまちや現秩序を破壊するものに、人は依存している。それがなければ、人も環境も刷新されることがなく、閉じ、抑圧的になっていく。自分で自分を壊すことは難しい。自分がいつもと違う行動をするのも難しい。だがそのことで自分が疎外され、ダメになっていく。人間は一人では自立していない。自分を壊すものと接点を持たなければ健全性を保てない。

 

もし「人に迷惑をかけない」を完全に実行すれば、まず自分がだんだんと抑圧的で排除的な、迷惑な存在になっていくだろう。精神は狭量になり、不安になり、自分が閉じているのに、周りは助けてくれないと感じ、怒りや恨みをもちはじめる。

 

「迷惑をかけない」ことはできないだけでなく、それを自分で実行したり、周りに強いたりすることで、よりタチの悪い状況が生まれる。迷惑をかけないことはできないけれど、それならどう迷惑をかけるのかというのが問うべき問いなのだと思う。