降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

第15回当事者研究交流集会 民間学・在野学としての当事者研究

第15回当事者研究交流集会へ。

 

当事者研究の幅は、場面緘黙ジェンダー、支援者とだんだんに広がっている。向谷地さんや熊谷さんは当事者研究のネットワーク化を考えているという。

いいと思う。一方で今後当事者研究がどんどん広がっていくというイメージがどうも持てない。

 

当事者研究は良くも悪くもコアなのだと思う。ある程度以上の苦しみをもった人にとっては適合していると思う。しかしそれほど苦しみが意識に浮上していない人にとっては、見たくない部分を認めていくというのは難しいのではないかと思う。そもそもやろうとは思わないのではないか。「色」がついたものにに近づこうとはしないのではないか。プライバシーの問題もある。当事者研究はかなり赤裸々なものだ。

 

今回、午後に様々な分科会があって、僕はそのうちの一つ、こども当事者研究に行った。そこは発表者がてつがく対話をやっている人たちだった。僕はてつがく対話と当事者研究は通じるところが多いと思っている。そして必ずしも赤裸々にプライバシーを公開する必要もない。もし当事者研究的なものを広げようとするなら、看板は当事者研究ではなく、てつがく対話でいいのではないかと思う。てつがく対話のなかに、バリエーションとしてコアな「当事者研究」があるというように。

 

また、当事者研究が幅を広げていくと、何が当事者研究なのかがだんだんとわからなくなっていくのではと思う。関西当事者研究交流集会で非モテ男性の当事者研究があって、会場は大ウケで内容も秀逸だったのだが、この当事者研究とこれまでの当事者研究はある種ジャンルが違うと思った。どっちが正統とかよいとかそういうことでなくて、別々のものだと思った。できたら別々のものが両立しうる環境が作られればいいと思うのだが、毛色の違ったどの研究も当事者研究という言葉でなんとなくよんでいると、何をやっているかが掴みにくくなっていくのではないかと思う。

 

当事者研究」を真ん中に置いてどんどん押していくよりも、実質的に当事者研究もできる枠組みを設定したほうがいいのではないか。

 

たとえば、当事者研究をいわゆるアカデミズムとは異なる知の体系としての「民間学」とか「在野学」のようなもののなかに位置づけたらどうか。いわゆる学問的な証明のようなことがきっちりかっちりできなくても、学問で対象としずらいようなところでも、自らの感性と経験で探究、研究していくような学としての「民間学」、「在野学」だ。

 

 

たとえば、幻聴に人格を与えて人として扱ったり、お茶を幻聴に与えたりして、「対話」していると幻聴はだんだんとマイルドになっていくということが当事者界隈的には確認されている。この現象を学問で証明できないからといって探究を中断するのは勿体無い。当事者は自分の必要にあわせて、どんどんと探究していけばいいではないかと思う。別にそれを義務教育の教科書に載せるというわけではないのだから。自分たちが探究していくなかで、発見されたり、支持される仮説はそれとして探究していけばいい。それはいずれ学問とも接点を持つかもしれない。

 

 

大地の再生講座という環境改善をやっている矢野智徳さんは、地表の下の水の通りに注目し、土壌を改善している。だが矢野さんの感性で確かめられ、発見されたことと、現在の土木の常識は違っている。土と木という字があるように、矢野さんのやり方では、土中に管を通し、その周りに炭や木や葉っぱなど有機物を混ぜて埋める。そのほうが改善したことの効果が持続的なのだ。しかし、一般的な土木工事では、そういうふうに土中に有機物を混ぜることはNGとされる。

 

 

さくらももこさんが民間療法で寿命を縮めたみたいなこともあるかもしれないが、民間療法がエセ科学だからと強烈にバッシングしてもやる人はやるだろう。むしろバッシングに隠れてやってしまうよりも、バカにしたり責めたりせずにやっていることをオープンにしても大丈夫にして、現代医療も含め、様々な見方がそこに入ってくるようにしたほうがましなのではないか。常に盲信に気をつけ、探究的であること、リテラシーを深めていくことで、危険は抑えられるのではないか。

 

 

民間学」や「在野学」として、個人が実践的に自分の興味を探究し、それが発表される場を作ればいいのではないかと思う。ジャンル難民は割といるのではないか。すでにあるカテゴリーにはまらない、複数分野や境界領域の探究をする人たちが作るオルタナティブな知のあり方を盛り上げていくのはどうか。当事者研究だけをどんどんおしていくよりも、個々人に学びと探究を取り戻した「民間学」、「在野学」の土壌を作ろうという方向で流れを作って行く時、当事者研究もまた自然と盛り上がりと展開を持つのではないかと思った。