降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

広瀬正『マイナス・ゼロ』 記憶のあり方と喚起 そしてノスタルジー

広瀬正『マイナス・ゼロ』。

タイム・トラベルものということで、紹介されているのを見て、気になっていたのを読む。

shiyuu-sf.hatenablog.com

 

タイムファンタジーパラレルワールドものには強く関心がある。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

マイナス・ゼロ (集英社文庫)

マイナス・ゼロ (集英社文庫)

 

 

1945年の東京。空襲のさなか、浜田少年は息絶えようとする隣人の「先生」から奇妙な頼まれごとをする。18年後の今日、ここに来てほしい、というのだ。そして約束の日、約束の場所で彼が目にした不思議な機械――それは「先生」が密かに開発したタイムマシンだった。時を超え「昭和」の東京を旅する浜田が見たものは? 失われた風景が鮮やかに甦る、早世の天才が遺したタイムトラベル小説の金字塔。

 

ここでは、過去に行って過去を変えるとその時点から未来が全部変わっていくという設定。映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」などもそうだった。一方、ドラゴンボールなどでは、タイムマシンがあって、過去で何かを変化させても、世界は分割されるだけで、悲劇の世界は悲劇のままであり、一方にその悲劇を回避した世界が生まれるという設定だ。

 

内容については、はてなでもいくつも紹介記事があるのでそちらにお任せする。

 

タイムトラベル 今ここはマイナス・ゼロ - 本を読んで社会をのぞき見

マイナス・ゼロ/広瀬正 - 基本読書

広瀬正『マイナス・ゼロ』読了。 - nekoTheShadow’s diary

 

内容、特に終盤の構成がとても面白かったが、あとがきに一番興味をひかれた。作者が実際にした体験が紹介されている。米兵に殴られ、意識を失った筆者は一年間の記憶を失い、しばらくの間、今が戦時中だと認識し、なぜ空襲がくるのに灯りがついているのかとか、自分や周りの服装がおかしい、などと混乱してしまう。

 

 私は一度、ほんのしばらくの間だが、記憶を失ったことがある。

 終戦の翌年の春、私は東京八重洲口の前にあったキャバレーで、ダンスバンドのバンドマンとして働いていた。ある夜、仕事を終えて、鍛治橋のあたりを歩いていると、向こうから四、五人の米兵がやってきた。すれちがいざま、米兵の一人がいきなり私にアッパーカットをくわせ、私は歩道の上にのびてしまった。(当時は、よくこんなことがあったのである。)

 どのくらい時間がたったかわからないが、私は息を吹き返して、立ち上がった。頭のなかががんがんしていた。あたりの様子もどうもおかしい。

 ・・・あかりがたくさん見える。なぜ灯火管制をしていないんだろう。空襲があったらどうするつもりなのだ。それに自分は変なハデな服を着ている。どうしてゲートルを巻いて、防空服装をしていないのか。

 確か十分ぐらいで、正常に戻ったと思う。その十分の間、私は約一年ぶんの記憶を失っていたわけである。

 この話をSF作家の友人にしたら、「十分間、過去の世界へいっていたわけだね」と笑った。しかし、私はその反対だと思う。
 一年ぶんの記憶を失った私は、主観的には”空襲中”の人間だった。それが、辺りを見まわしてみると、”終戦後”の世界にいたので、驚いたのである。つまり、私は”未来”の世界へ行った体験をしたといえる。

 私はこういう物の考え方が好きで、それをいくつも積み重ねて行くうちに、「マイナス・ゼロ」のストーリーが出来上がった。

 

筆者は自分が体験したのは未来だという。まあ体験としてはその通りだともいえるだろう。だが僕が取り上げたいのは、過去の認識体制が現在としてそのままよみがえるというところ。

 

僕は人間の精神の世界は時系列を持たず、過去のものも同時に現在にあるようだと思っている。認知症で時系列の認識ができなくなる場合があるが、あれがもともとのベースの状態なのだと思う。時系列がなく全ての記憶が現在にあり影響を受けている。

 

そのうえで、時系列という便宜上の処理が重ねられて、過去と現在が分けられて認識されるのだと思う。

 

新しい脳は悪口をいう時、自分以外に言っているとわかるが、同時に古い脳はそれがわからず、自分に言われているように受け取っているという。認識は少なくとも二重に行われており、意識上は新しい脳の判断が受け取られるが、古い脳はダメージを受けているというようなことがおこっている。

 

そんなふうに、現在と未来は意識上は分けられるが、同時に時系列が関係なく現在に存在しているように感じられていると思う。

 

過去のことは、現在からは失われており、無いものと意識される。ところが実際にはずっと影響を与え続けていて、40年生きていたとしたら40年の記憶が現在に同時的に生きている。だが過去の記憶はあまりに意識をあてられる機会がない。

 

ヨーロッパなどで、何百年も前の街並みの姿が維持され重要視されるようなことは、そのことによって、そこに5歳の時の記憶も、20歳の時の記憶も、70歳の時の記憶も同時に喚起されるからだと思う。今まで生きてきた全ての部分が重ねられ、喚起されることは豊かなことなのだ。

 

接点を失っていた古い記憶が何かの刺激や誘因で浮かび上がる時に喜びを感じると思う。風景が変わると、あれは5歳の時の風景、あれは30歳の風景とそれぞれが引き出されるための刺激や誘因が変わってしまう。精神は、できるだけ多くの記憶が喚起され、引き出される環境が好きであり、そのことで活性化されるのではないかと思う。

 

 

あと、タイムファンタジーものには、失われたものともう一度出会うということが含まれている。

 

人間は失われたものに対する強いノスタルジーをもっている。それは知恵の実を食べ、言葉を手に入れ、過去と未来を手に入れた代わりに、世界との一体性を奪われた疎外された人間がもとの一体性を希求するためだと思う。故郷は遠くにありて思うもの、なのだ。失われていることによって、それは本来のリアリティを持ちうる。

 

時系列を踏まえている状態では、時系列がないもともとの状態を体験することができない。言葉をもって世界を認識しているとき、言葉以前の世界を体験することはできない。ただ、「失われたものに出会う」というかたちをとらせることによって、「たとえ」としては、感じることができるのだ。