降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

折に出会う本 

藤沢周平の『一茶』、考えてみれば小説を一冊読んだのは最近珍しいかもしれないと思った。

 

ここ最近で少しマシになったけれど、本を読む負担感が大きい。藤沢周平は例外的に苦しくなく読めるなと思っていたけれど、短編は読めても一冊はちょっとしんどいなと思い、読まないままになるかもと思っていた。

 

けれども結局読めた。一茶自身というよりは、登場人物に魅力があった。たとえば、一茶の仕事の口を見つけてあげる露光。露光は元御家人だが家を捨て、俳諧師になっている。仕事の口を紹介した時には一茶にうどんと女を奢らせている。卑屈なところもあるが、一茶の才能を見抜き、一茶に道を与えた。一茶は時に露光を金にたかる厄介者や自分の餌場を奪う者のように思う時もあるが、露光には一茶が思う以上の矜持があり、一茶に自分のようにはなるなと吐き捨てる場面もある。露光は旅先で行き倒れ、それは本望であったとも思われたが、俗な一茶には露光のような最後は決して受け入れたくないものとして感じられる。

 

豪商であり、一茶の俳諧の師匠でもある成美も底が見えない人物で、次に何を言うのかが登場のたびに楽しみになる。

 

 

成美は、元夢の話を聞きながら、眼を垣根の先の林に向けていた。そこには梢を漏れる午後の日射しが、欅の白っぽい樹皮の上や、地上に斑らな光を投げかけている。

 弥太郎(注:一茶)は、時どき眼をあげて、成美の顔を盗み見た。成美は四十前後の年恰好で、面長で、艶のいい顔をしていた。広い額や、引き緊った唇のあたりに、内側に鎮静している才気がうかがわれる。

 

「ほう、俳諧師に?」

 不意に成美が言って、弥太郎に眼をむけた。切れ長の、濁りのない眼だった。商人の眼ではなかった。その眼に、弥太郎はいきなり心の中をのぞきこまれたような気がして、眼を伏せた。笑われるかと思ったが、成美は笑わなかった。柔らかい口調で、成美は問いかけてきた。

 

 

 初対面の自分の前で、不自由な足を隠さなかった成美に、少し度肝をぬかれていた。やがてそれは静かに心を揺さぶってきた。

 ーー人はあのように生きるべきなのだ。

 貧しさも泥くささも、卑屈な心さえも、隠すことはないと、成美の踊るようだった身体が言ったような気がした。

 俳諧師になりたいなどと言ってきた男が、じつは信濃の百姓に過ぎないことを、成美はいち早く見抜いたに違いなかった。蔑まれないのは不思議だったが、そのわけが呑みこめたように思った。好きなら、なればいいと成美は考えているのだ。

 

 

正直、現金な一茶には奥行きがあまりないのだが、一茶と関わる人たちは見えているものの向こうに何かがある感じがする。

 

さて、ある時期の自分にとって必要なものと出会うということがある。中学校の不登校の時に、父親が司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を買ってくれたのだが、封建社会の秩序が壊れていく時代の志士たちの個性や生き方は、レールから外れ、どこに行くのかもわからなかった自分にとって、ある種これからのイメージをくれるものだっただろう。

 

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

 

 

北海道へ行き、1年で愛媛に帰ってきて全日制の高校に通ってまた行き詰まって、大阪の通信制の高校に行くと決めた時、ふと本屋で気になって手に取ったのは、それまで一冊も読んでいなかった村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』だった。空虚な主人公が誰かに運命を操られているかのように不思議な出会いを重ね、導かれる。主人公はかつての恋人の足跡をたどっていくなかで、不登校の子どもと出会い、当時は遠い存在だった同級生と出会う。

 

 

ダンス・ダンス・ダンス (講談社文庫)
 

 

 

彼らのやりとりのなかで、互いが喪失したものが確認されていく。その確認は彼らにちいさな救いを与え、回復を与える。彼らはそれぞれの世界のなかで行き詰まり、閉じ込められている。そしてそこでおこった回復は、より大きな喪失を受け止めるためのものだったように思う。そうしてそれぞれの閉じた世界や状況はどうしようもなく壊され、開かれる。

 

ダンス・ダンス・ダンス』の内容は、全日制の高校にあわず、また家族ともあわず、大阪に行こうとしている自分と符号しているように思えた。何の予備知識もなく、直観的にとった本が自分の行く先を支持しているように感じた。

 

藤沢周平の『一茶』もそのような本なのかもしれない。途中で43歳になった一茶に、江戸で名をあげることを諦める時期が来る。世知と才気を兼ね、時流にのる俳諧師と一茶の明暗は残酷なほどはっきりしていた。と同時に、一茶の句に一茶ならではの味がのってきた時でもあった。

自分もちょうど43歳だ。バイトと畑と活動で好きにしているとはいえ、その継続が何か世界を開いていくと確信があるわけでもない。むしろ閉じていくのではないかとも思える。活動を展開させようとはしているが、それに本腰を入れられるのかどうかが自分でも半信半疑なところがある。

世間で生きていけるように、着実に何かを積み立てていくようなことはしていなかったし、今更するつもりもおきない。農民の出のくせにクワも握らず、旅先でわらじ銭をもらう一茶、露光のような末路をおそれる一茶と自分は変わらない。

 

 困難があってもやっていく気概があるわけでもない。一方でキリギリスのように惨めなつまはじきになる覚悟があるわけでもない。このままの気分でやっていって開けるような気もあまりしていない。が、とりあえずやっていこう。好きに生きていて、年取ったら実家の財産を横領する一茶の身もふたもなさ、そういう自分の地に着く機会にもなるかもしれない。