ここ最近、幾つかの場に出た。自分の求める話しの場はどんなふうな場だったらいいのか、少し考えられた。
当事者研究界隈の人とは「降りている/降りていない」という言葉で通じるが、そこを共有しない人にはどういえばいいか。
個人的な理解では、降りているというのは、自分のコントロールだけでは自分はどうにもならないことが受け入れられていて、話しの場で自分の弱い部分を出せる状態。それは場に対するシェアになる。その時、場は震える場となっている。
その震えは磁場のようなもので、その磁場が発生している時、各人の思考や発言は影響を受ける。そして影響を受けた状態で自然に思い浮かぶこと、出てきたことを話すと場は重層的な豊かさを持っていく。
自意識が何かを獲得しよりマッチョになるためでもなく、さりげなく自分の自慢をするのでもなく、場の震えを受け入れるとき、浮かんでくることがある。その働きは自律的な働きであり、直接的な自意識の操作やコントロールに属するものではない。
そしてここで震えを受け入れることによって、止まっている自分の「時間」が揺れ動き、流れはじめる契機が生まれる。その流れに自意識が降伏することによって、降りることができる。その時、精神は重荷から解放された明るさと知性を獲得する。
明るさは既知の自分、この自分を操作することでしか生きていけないのではないことを知るためであり、知性はその既知の自分ではない新しいもの、自律的なものとの関わり方を知るためだ。当事者の知性はここにあると思う。