降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

世界を彩るフィルターを変えるために 「お節介」としての援助

「過去と切断する力が意思」、「ポジティブや未来志向礼賛の残酷さ、どうなりたいかわかれば苦労しない」「欲望は過去とつながったところに湧き出てくる」。

 

ツイッター上の白石正明さん、斎藤環さん、信田さよ子さんたちのやりとりが面白かった。

 

 

 

未来は過去(記憶)を通して想像されるものであるから、未来の見え方、彩りは過去が規定している。過去の痛みを感じないようにしようとして意思を使用していると自分にも他人にも無感覚になると思う。

 

自分という個人が充実を感じることは、実のところ過去と繋がっていることができたということなのだと思う。過去や記憶は、置かれているところ静かに黙っていて影響も与えないが必要な時に掘り出せるデータみたいなものではなく、現在の見え方や感じ方を直接彩るフィルターとして直接的に影響を与えている。インスタグラムのフィルターみたいに、同じものをとっていても、そこから受け取る印象や経験はまるで違うということになる。

 

だがそのような彩りをもたらす過去を変化させるのは難しい。まず、すぐに意識にのぼらないかもしれないし、頑強なものはただのぼっただけではプロセスが不十分だ。そこで止まっていた時間を流すこと、プロセスを経過させることが必要だと思う。

 

時間を流すとは、過去の時間が止まった(認識のあり方が確定した)時点のリアリティを喚起させながら、それを別の体験として更新していくということだ。

 

たとえばセルフヘルプグループで少し回復した人が、ピアスタッフとして参加者に関わるような、他人からみると、まわりくどく、面倒くさい作業が必要になる。しかし自分にとってプロセスがおこることをやらないとずっと世界の見え方、世界の彩られ方はのそのままだ。(この作業は、本人は最初から最後まで何をしているか自覚なくやっている場合もあるが、誰もが必要としていて無自覚であっても求めている作業だと思う。)

 

斎藤さんは環境調整が必要な場合も多いとし、それは「お節介」だとする。そこには、専門家の直接的な操作の害が現在どれだけあるかということも示唆していると思う。押しつけがましさもきちんと影響して回復の阻害になるから、専門家なら自分の援助が「お節介」なのだという、自分の突き放しができることが今後だんだんと常識になっていけばいいと思った。

 

生まれる、生まれたということも、直ちにそれを善、幸福としてそうでない感慨を抑えつけることが世間でどれだけあることだろう。ポジティブを押し付けることの暴力。その暴力の背景には自分の痛みを再燃させないことがある。自分が痛みを感じるのがいやだから他者を抑えつけているのだ。

 

また「産む」「産まない」ということが自己決定によるもの、責任はその個人にあるとされるようなことも、野蛮で残酷な考え方だったなと、後々の時代には受け取られるようになるだろうか。

白石正明@shiraishimas
社内の鬱病経験者がシンポを聞いて、過去と切断する力が「意志」なら、「欲望」は過去とつながったところに「湧き出てくる」ものなんだ、と言っていました。寄る辺ない現在に浮遊する鬱病者に、未来に向けた意志決定を迫るなど拷問だと。

 

斎藤環@pentaxxx
「欲望形成支援」、まさにご指摘の通りですが「やりたいことを見つけよう」となると、とたんに陳腐化してしまう。「断酒したい」「就労したい」という欲望を「自分自身で発見する」ことを支援することになるわけですが、これがとびきり難しい。環境調整という「お節介」が必要となる場合も多々です。

 

信田さよこ@sayokonobuta
参戦させてください。「お節介」こそ今後のキーワードでは?切断でもなく、支配でもなく最後に残るもの(?)としてのお節介は國分さんのおっしゃる「義」にも通じるような気がしています。またその欲望はたとえばベてるのミーティングでの「今日の体調は?」にみられる身体性の装いであらわれる?とか

 

信田さよこ
ポジティブや未来志向礼賛の残酷さ、
どうなりたいかわかれば苦労しないでしょ💢


白石正明
過去との接続は多くの場合、芹沢俊介さんがかつて言っていた「イノセンスの承認」(生まれてきたことに責任はない=I was boneの承認)によってもたらされるものならば、お節介はそっち方向でしょうか。


白石正明
しかしあらためてI was boneを受動態ではなく中動態と解釈すると(「生まれさせられた」ではなく、ただ「生まれてきた」)、より広がりが出てくるような気がしますね。(『中動態の世界』P315第3章注25参照)


信田さよ子
暴力現象と中動態、まとまりませんがこの辺りコアですよねー。


斎藤環
この文脈なら「欲望は他者の欲望」という言葉がすっきり腑に落ちる気もします。内的原因として意志や欲望を求めすぎると苦しくなる。その発見が主体化をもたらすと考えるなら、支援は必然的に「お節介」になりますね。それをお節介と気取られない姿勢として専門性が要請される。