降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

メタ・コミュニティ コミュニティのあいだと生命のスープ

メタ・コミュニティについて。

 

あるコミュニティは個性をもつとともに、同時に制限を持ちます。たとえば、ある場所をみんなの居場所と銘打った瞬間に、そこに暗黙の前提、あるべき姿が生まれ、そこに行きにくくなる人、かえって自由を感じられない人がでます。

 

あることへの関心を持っているけれど、そのワークショップや講座などをやっている特定の集まり(コミュニティ化している)に合わない人が、別の場所で、その集まりに行ったけれど合わなかったという人に出会う、ということがあります。すると問題意識などがその時点で、かなりあい通じるものになった状態でやりとりがはじまります。

 

そういうこともおこりうると考えると、あるコミュニティの存在意義は、そのコミュニティのなかのことや内容だけにあるのではなく、派生的にそのコミュニティに合わないという人たちを出会いやすくする機能にもあると思えます。あるコミュニティが生まれるということは、そのコミュニティの外の場が生まれ作られるということでもあります。

 

コミュニティの内と外の豊かさは相互依存的なもので、そもそもあるコミュニティが存在しなければ、その外も存在しませんが、あるコミュニティがあることによって、特性をもつ外が生まれます。それはコミュニティとコミュニティのあいだに場ができることともいえるかと思います。僕は、人が自分にあった人に出会い、そして自分に必要な体験を引き寄せうるために必要な豊かさは、この間にあると考えます。

 

先日、国分功一郎さんが斎藤環さんたちとされたシンポジウムにおいて、必要なのは「意志決定の支援」ではなくて「欲望形成の支援」ではないかという提言をされています。

 

 

考えてみると、意思や自己決定といっても選ばされるもの(コミュニティ)が既に決まっているのならいくら自分が決めるといっても自分にとっては不十分なものになりがちです。一方、それぞれの小さなコミュニティがたくさんある環境では、そのコミュニティのあいだもまた豊かなグラデーションをもっています。

 

そこでは、自分はこういうことをしたいのだということが具体的に「出てくる」ことが誘発され、共通の価値観をもつ出会うべく人に出会いやすい、コミュニティが生まれる前段階のような状態や雰囲気が充ちています。生命のもととなるものが豊富に用意された状態が「生命のスープ」とたとえられるように、自律的なものが動きだせるためには、場が「生命のスープ」のようになっていることが重要だと思います。

 

この「生命のスープ」は、ちいさなコミュニティが多種多様に生まれ、同時にそこが閉じきってしまわず、自然な行き来、間接的な行き来があるときに生まれると思います。それは、既に実体化し、かたちや個性が決まった個々のコミュニティのなかにあるのではなく、その個々のコミュニティの存在が生むあいだの空間の多様性です。ですがこの外の多様性は、個々のコミュニティの多様性に依存しています。

 

たくさんのちいさなコミュニティがあることの大きな存在意義は、その外側に「生命のスープ」状態をつくることであると思います。たくさんのちいさなコミュニティがその外側、その間につくる「生命のスープ」状態を含めて、その全体がメタ・コミュニティとなっていると考えられるではと思います。