降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

意味と希望 世界の向こう

今まで考えてきたことは、どうやったら生きることと回復とつながるのかということだった。

 

女性ダルクの上岡陽江さんなど何人もの回復者が、回復はずっと続く、回復は終わらないというのはどういうことだろうかを考えたが、それは言葉の世界、意味の世界、記憶の世界に投げ入れられたことによる世界との一体性の剥奪、その根源的傷つきあるいは喪失のためであるのかなと思うようになった。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

意味の世界は常に自分が対象化、意味づけされ、存在していいのかどうかが問われている世界だ。自分が存在意義を獲得するために何かを保持したり獲得しなければならない。自分の意味を奪われているほど、何かをやること(doing)への強迫が強くなる。そこから獲得や保持するものがなくても、自分が安定する状態へ移行することは回復であると言えるだろう。

 

しかし言葉の世界にいる限り、世界の一体性とは乖離している。言葉をもって世界を認識することはもはや自動的なことであり、悟りでもえてないとそこから逃れることはできないだろう。再帰的なものとしての自分、振り返って確認できる自分がいるとき、そこに世界との一体性はない。

逆に眠っている時など、自意識が落ちている時、停止に近い状態の時には、世界との一体性はもとに戻っていると思われる。だがそれは自分としては体験できない。自分として世界との一体性は確認できない。それは矛盾する状態なのだ。よってこの自分としては、完全には回復は遂行されない。

 

言葉の世界にあるとき、そこには根源的傷つきがあり、それによって自分は動かされている。先の投稿で、おきさやかさんが自分の求めていたことに気づかれたように、自意識も知らないところで自分の求めは自分を動かしている。そしてその方向は明確だ。鶴見俊輔はこの根源的な痛みにつながる、自分がなぜ生きるのかという各人に付託された問題を親問題とし、場当たりの適応やどうその場しのぎをするかという問題を子問題とした。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 

人は親問題に向き合って生きる時、世界を切り開きうる強い動機をもつ。この根源的傷つきがあるために強い反発力が生まれ、その求めに応答することによってこの言葉の世界を精神が生き抜いていく力を得られる。真に充実と感じることは親問題と関わっていると思われる。なぜ充実を感じるのかというと、その背後に根源的苦しみがあるためであり、その苦しみを乗り越えていくように感じられるとき、充実がある。

 

親問題に向き合うとは、この世界で自分という精神が生きて回復していくためのサバイバルの方法であるといえるだろう。言葉の世界にいる限り、根源的な傷つきである親問題をもつ限り、この強い力が使え、充実が得られる。

 

さて、ここでこの仕組みがマッチポンプであることに気づくだろう。人間が言葉を獲得して自分で傷つく。そしてその力を使って充実を得て、世界を切り開く力をもつ。やること(doing)にしがみついている状態からなるべく何もしなくても安定する状態になっていく。自意識が停止しているときは世界との一体性は回復している。

 

つまり回復は「するべき」もの、目的になるものではなく、手段としてある。別に回復しなくてもいい。回復しなければと、強迫を一つ増やすことによって、結局回復の停滞がおこるのであるし。

 

死ぬときには、言葉の世界はなくなるだろう。よってもとに戻っている。回復は生きている間だけ、用があるものだ。何かをしなくてはいけないのではない。どこにも行く義務はない。ただ根源的な傷つき、親問題に向き合うとき、自分が自分として取り戻され、充実が感じられるから、自分の精神にとって有効なサバイバルの手段として回復があるだけだ。

 

そして親問題に向きあえるか否かは、運による。受難のような、他者によって今の自分を傷つけられ、壊されるという契機を持ち得なければ、人は場当たりの適応で済ましてしまう。世間的な順調とは親問題という視点からみれば疎外であるだろう。人がみんな子問題に向かうと、社会は生きづらくなるのだが。

 

社会を根源的に変革することは難しいだろう。なぜなら人は自然と自分を疎外し、子問題に集中するからだ。親問題に向き合うのには、大きな受難を契機として必要とする。そして受難を受けたらから必ず回復するとは保証されていない。受難自体で死ぬかもしれないし、生き残っても道半ばで倒れるかもしれない。回復はまるで割に合うものではない。

 

いずれ太陽に飲み込まれる地球。そうでなくとも人間はさっさと滅びそうだが、何かを保全することもできないし、何かのために自分を押し殺し完全に奉仕させることもない。選択肢などはじめからない場合もある。


意味とは、何かをやっていれば将来に報われるという約束だ。だがその約束は勝手に自分が設定しているだけで、果たされるとは限らない。意味を追究することで虚しさを埋めることは不可能だ。意味とは、痛みや虚しさを塗り隠すものであって、ドラッグのように強烈だが、代替的なものだ。

 

フレイレは希望という言葉を使う。絶望していないのに希望をもつ人はいない。言葉の世界は記憶の世界であり、それは価値が決定されてしまった世界だ。それが絶望であるだろう。倦んでいるのに乗り続けるメリーゴーランド。だから人は外の世界に働きかけることによって、自分の内にある決定されてしまった世界を変えようとする。

 

希望の教育学

希望の教育学

 

 

自分の既知の領域に存在しなかった他者との出会いによって、そのメリーゴーランドの風景はまた新しいものになる。その時人は希望を得る。この風景が変わりうるということを確認するからだ。風景が変わるとは、同時に、見えている風景が変わりうる幻想であることも示唆している。人は言葉の世界に生きながら同時にうんざりもしている。見える世界の向こうを感じることも必要なのだろう。