降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

問題解決とは何か 前提を維持する改善と前提を破綻させることの違い

問題解決とは何か。
当事者研究は問題解決の取り組みのようにみえるかもしれないが、熊谷晋一郎さんなどは、問題解決ではないとしている。

https://www.dnp-cd.co.jp/lab/column_ud/pdf/pdf01_02.pdf

 

熊⾕先⽣
当事者運動と当事者研究について話しましたが、「当事者運動」は、⼀致した利害関係に基づいて運動⽬標を⽴てることが多いため、その時点で均質性を⾼めるような⼒が働きます。
⼀⽅、「当事者研究」は、当事者が問題解決のために集まるのではなく、お互いの事を知るために集まってくるので、均質性は⾼まらない。解決ではなく知ることを共通⽬標にして集まった⼈たちの空間の⽅が、多様な声が排除されず、そのまま出てくるので、均質性が過剰に⾼まらないのです。

 

問題が問題であるためには、それが問題であるという前提が維持されている必要がある。だが対話などの過程を経て、それまで問題とされていたことがもう問題としては認識されなくなることはある。

 

かつて同性愛は治療の対象とされていた。同性愛であること自体が問題であるとされていた。だが同性愛自体が問題であるという前提が維持される限り、どんな「解決」方法が模索されようが同性愛者は救われないだろう。

 

ここで問題とは「あってはならないこと、あるべきでないことがあること」と言い換えることができるだろうか。問題解決とはそのあってはならないこと、あるべきでないことを根本原因から変えることであるだろうか。

 

しかし、なぜ「問題」とされるそのことは、あってはならないのか。あるべきではないのか。あることをあってはならないとする前提自体が問われると、その問題を問題とするより、その問題を問題として成立させている「問題」があることに気づく。

 

そのとき、かつて問題だったものは「あってはならないこと」として自分を追い詰めるものではなく、問題を問題として成り立たせている基盤を作っている「問題」が問題となる。無自覚に持っていた前提が変わり、世界の見え方、感じ方が変わっている。


問題解決の何が問題なのかと思うとき、自分の実感としては、問題解決を第一義にあげている場では、その場自体が貧困になり強迫的になるからむしろその「問題解決」さえ実は遠ざかっているというものがある。直接的な問題解決というのは、臨み方としては、「下の上」かよくて「中の下」というのが実感で、色々制約があって仕方ないからそうしているかもしれないけれど、わざわざ積極的に選ぶような臨み方ではないと思っている。

 

当事者研究が問題解決ではないといわれるのは、困りごとや苦労を研究していても、そこは「常識」という無自覚な思い込みや強迫が破綻していく場所であり、それまで問題だと思っていた前提自体を崩していく場所であるからだと思う。