降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

スポーリン『即興術』

スポーリンの本を購入。

 

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注釈が丁寧で、章の終わりなどでまとめて書かれているのではなく、そのページのなかにコラム的なスペースをとってすぐに説明されている。たとえば、本文中の「関わり」はinvolvement の訳で、これはrelationshipより強い関わりを示す言葉だが、これと混同しないように【取り組み】【関わり】と併記している部分があるなどとそこで説明されている。

 

スポーリンは、個人の体験することに対する受容能力は、あたかもその個人があらかじめもつ「才能」のように思われているが、その受容能力を高めることができると考える。直観を特殊な人のみに備わるものととらえない。

 

「私たちは、自発性によって本来の姿に再形成されます。それは単に先人から譲り受けただけの思考の枠組み、古い事実や情報、他人の発見による未消化の理論や手法のいっぱい詰まった記憶から私たちを一時的に解き放つ爆発を生み出します。自発性とは私たちが現実に直面してそれを見つめ、探り、それに応じた行動をとる個人の自由の瞬間なのです。ここにおいて部分のよせあつめにすぎない私たち自身が一つの完全な有機体として機能するのです。」

 

自発性はspontaneityの訳語で「意識的におこなうのではなく、自然に生まれてくる行為や行動、その様子をさす」とある。意識的操作ではなく、自律的なものとされ、本書では場合により、「自然発生」とも訳される。

 

主体性とか、自発性とか日本語で言うと普通は、意識的な操作をイメージすると思うが、現れてくるもの、現れてくること自体に自律性があり、それが引き出される体にするということは、面白いし、意識的努力で疲れきった人には救いだと思う。

 

スポーリンはゲームによって、自発性を引き起こす状況をつくる。そして自発性が個人を導いていく。スポーリンいわく、「私たちは経験し体験することから学ぶのであって、誰も何も誰にも教えなどしないのです。」

 

体験とは、「環境に入りこむこと、有機体として丸ごと環境と関わることです。これはすべてのレベルで、つまり知的、身体的、直感的という3つのレベルにおいて関わるということ」であり、「このうち学習の場できわめて重大な直観がおざなりにされている」とされる。

 

直観は即時的にしか、つまりこの瞬間にしか反応できません。直観は自発性の瞬間、つまり私たちが移ろい変化し続ける周りの世界と関わり、そして働きかける自由の瞬間の贈り物としてもたらされるのです。

 

 

自発性がおこるための環境整備として、ゲーム、賞賛と否定、グループ表現、観客、演技術、日々の生活に学習プロセスを移行する、身体化、が挙げられている。

 

自発性がおこっている状態のなかで、直観が生まれる。直観は、断片的な知識、過去へのとらわれなどを排し、人前で身をさらす恐怖に縛られたエネルギーを解放する。本来の意味で個人を統合的な行為を導き、同時に個人を再更新、再体制化する

 

このサイクルを繰り返すことによって、自分とともにある自然が発見され、そこへの関わり、通路がひらかれていく。世界との関わりにおける、詰まりをとっていけるということなんだろうと思う。

 

芸能などにおける型は、個人が陥りがちな癖をとるものでもあるということだけれど、スポーリンにおいてはゲームがその役割を果たすものなのだろう。

 

スポーリンの前提では、たぶん、1日とか2日とかの、その場限りで終わるグループではなく、長期的に関わりをもつグループが想定されているのだろうと思う。

 

どういうグループをつくるか考える。公演が目的ではないけれど、純粋に練習だけするというグループが、グループとして続くのかなと思う。大人の演劇部さんとかは、稽古だけといっても、リピーターもあり、初回もありの混在グループでコンセプトを設定していると思うのでそれでいいと思うのだけれど、スポーリン的なほうの成果を求めるなら、一度決めたらしばらくはそのメンバーでずっとやるほうがいいだろう。他にアイデアがないのなら、公演や発表をするということをいれたほうが必要な張りをもって歩みを進めるにはいいだろうと思う。

 

学ぶ場を維持するためには、やはりそれが一種のナリワイというかたちにつながるのがいいのだろうかと思う。あることを成り立たせるためには、そのあることの周りの環境をつくって成り立たすことが必要なのだと思うけれど。