降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

言葉の世界と回復の関係

言葉の世界に入るとは、世界との一体性から分離され、孤独で卑小な位置づけがされるという屈辱的な傷つき、根源的な傷つきを受けることなのだと思う。よって言葉の世界に入った瞬間に人は誰もが回復を求める存在になると思う。

 

だが、回復は遂行「すべき」ものではない。「すべき」は精神のプロセス、精神の時間を止める強迫であり、恐怖であるからだ。よって、回復しなければいけないと考えているうちは回復は停滞する。

 

逆説的だが、回復の最終段階では回復することへの強迫自体が手放される。あるべき姿としての回復ということを気にしなくなる。ただ精神の時間を動かすものを淡々とやっていくような感じになるだろうと思う。

 

回復しなければいけないという強迫はもうないが、精神の時間を動かすこと、つまり自分の精神と外界が直接つながっているような接点と関わっていくことによって、自分の内の世界の風景が変わっていく。

 

自分の内と外界が直接つながっている接点は、自分で感じて探究して発見しなければ見つからない。その接点を持たない限り、自分の内の時間は進むことなく、止まっている。生きていて、歳をとったとしても内側から見えている風景、感じられている風景が変わらないのだ。

 

同じ風景が続くメリーゴーランドの世界。権力者たちが力を行使し、好き勝手に世界を自分の都合のよいように変えていても、彼らは満足していない。同じ風景の退屈さに倦みきって苛立ちを抱えている。彼らはそれをより大きな刺激で埋めつくそうとしているのだ。

 

自分の内側の風景を変えていくこと。そこには終わりがない。そもそも言葉の世界をリアルとして生きている以上、回復には終わりがない。よって、回復とは達成ではなく、移行状態の獲得、移行状態の引き寄せとして捉えるのが妥当であるのではないかと考えられる。

 

言葉のフィルターを通した世界をリアルとして生きている以上、回復の達成や完了はないが、ある状態から次の状態への移行状態にあるとき、言葉の世界に入れられる前の本来性、世界との一体性が、世界のあちら側に感じられる。