降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

人間と人間もどき 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とブレードランナー

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人間と人間もどき。

 

物語におけるロボットに関心がある。映画ブレードランナーは原作ではアンドロイドは単純に人の偽物であるようだ。だが僕は自意識は機械であると思っている。

 

自意識は自らを「生命」と思ったり、「自然」と思ったりしているが、自意識自体は単にロボットに過ぎない。だから人間とロボットの対比を本質と偽とか、自然と機械とか、そういう対比にするのは馬鹿らしいと思っている。言葉と結びついて体を乗っ取っているプログラム。それが自意識だ。

 

自意識は、止まった時間のなかにあるし、過去のフィルターを通してしか物事を認識したり位置づけすることができない。自意識の統制を一時的に打ち消すことによって、世界との一体性を取り戻した体は統制下にある時より優れた反応性、創造性を発揮する。自意識は、言葉と繋がった危機のリアリティと結びついているので、強制的に体をコントロールできるのだが、自意識が前面に出ている状態は体にとって負担が大きく、疲弊がおこる。

 

物語において、ロボットは様々な文脈によって構成されている世界を理解できず、局所的な合理性によって世界を破壊していく。だがそれは実のところ、自意識が自分の精神や体に対してやっていることなのだ。

 

映画ブレードランナーのような物語においては、人間(実は自意識=機械の象徴)と人間より人間らしいロボット(自然と応答関係・対話関係を結んだ機械)、人間に対して、精神性を導く存在としてのロボットが現れる。後者が自意識を持った人間としての妥当な位置づけだ。自らが生命であり自然であると思ってしまったロボットは、結局周りの自然や生命を抑圧しはじめる。2001年宇宙の旅のコンピューターHALもそうだし、ロボットという言葉の生みの親であるカレル・チャペックの「R.U.R」で人類を滅亡させるロボットたちも同じだ。

 

映画は、原作の筋書きにおおむね忠実なように思えるが、決定的に違う部分がある。それはアンドロイドについての解釈が、原作と映画では180度違っている点である。映画では、人間と同じように知能や感情を持ちながら、4年の寿命しか認められていないアンドロイドの運命と悲哀が描かれている。観客は間違いなく、デッカードではなく、レプリカントのロイ・バッティのほうに感情移入するはずだ。しかし原作は違っている。アンドロイドの存在自体が「悪」なのである。彼らがどれほど人間に近づいても、それは人間の心の動きを模倣しているに過ぎず、本物の感情ではない。死の灰によって、脳が犯され、落伍者の烙印を押された登場人物のイジドアが見つけてきた蜘蛛を、アンドロイドのプリスがつかまえ、その脚を1本ずつちぎっていく場面には寒気がする。アンドロイドは、人間を含む、あらゆる生物に共感することができないのだ。主人公にしても、その妻にしても、落伍者のイジドアにしても、どこか精神を病んでいるのだが、生き物に「感情移入」する心は失われていない。アンドロイドがどれほど精密に人間の心の動きを再現しようとしても、それは所詮「模倣」に過ぎない。彼らは、本物の心を持つことができない邪悪な存在として描かれている。作者は「感情移入」こそが、人間を人間たらしめている特質であると言いたいかのようである。「人間と人間もどき」。このテーマは、ディックの作品の中に繰り返し出て来るテーマのひとつなのだ。リドリー・スコット監督は、ディックとは正反対の位置にアンドロイドを置いてしまった。僕は、この1点において、映画をディック作品の映画版として認めないことにした。