降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

抑圧と回復 人間とはどういうものか

人間とはどういうものかとずっと考え続けてきた。深く傷ついた人たちのありよう、そしてその回復のありようから。

 

深く回復する人たちは、深く傷ついた人たちであるようだった。そしてそのような傷つきは、自分からではなく、他者から受けたものだった。その人たちは自分が生きるために孤独にその耐えがたい痛みに向きあうことが要請される。その痛みはもはや押さえつけたり、感じなくすることができない。

 

結果として、その人はそれまでの自意識の核の部分から変わる必要がでる。だが変わるために必要なことは何も教えられていない。手探りで落ち穂を拾うように自分の底にある求めが出すシグナルに応じて確かめていくしかない。何の保証もなく、必ず回復にたどり着くわけではないが、困難な道程をすすみえた人は変化し、その変化がその人を深く救う。そしてその人の回復は、回復の途上で止まってしまった周りの人たちの時間をも回復させる。

 

一方、そのような傷つき、受難に遭遇する機会がなければどうなるか。人は自らの底にある痛みを、ごく自然に、無自覚に塗り込めてしまう。肉体的刺激や社会的地位、ありとあらゆるものを動員して、ミノムシがミノとなる小枝や葉っぱの切れ端を集めるかのように集め、覆い隠し、無感覚になってしまう。痛みは忘れられてしまう。そのことは同時に同じような痛みをもつ人への共感も失わせる。痛みを忘れることは傲慢になることでもある。自分の痛みをないものとして扱うとき、人はまた他者の痛みもないものとして扱う。

 

痛みを忘れることによって、その人はさまよっている。自意識はその耐えがたい痛みに対して無感覚になろうとする。一方で、体はそもそものその痛み自体を取り除こうと反応している。この分裂は身体的あるいは精神的刺激によっておさえこむことができる。また自ら何かしなくても、恐怖のなかにいれられている人は圧倒されて体の反応が抑圧される。

 

だが痛みが抑圧されていても、そのシグナルは残る。体は寝ているときに勝手に動くように、意識の間隙を縫って痛みを取り戻そうとする。だからその痛みを忘れた人も、そのシグナルをたどって痛みにまた出会う行動をする。この行動は無自覚であっても行う。うまくできたものだ。自意識が思い切り逆方向に行こうとしているのに、知らないあいだに体は痛みの直面により近づいている。

 

だが無自覚に痛みの取り戻しへと走る人は、むしろ回復に近い人といえるのかもしれない。大多数の人は、自意識と体の求めが分裂していても、まだそのあいだを刺激によって誤魔化すことができて、無感覚のまま、抑圧(そしてそれによる他者への痛みへの無感覚)を抱えたまま、死んだもののように自分の時間を止めて生きることができる。

 

しかしそのような人も、行き詰まり、行き場を失ったりすることによって、シグナルに耳を傾けるようになる。そして痛みを取り戻すための行動をはじめる。先の投稿にあげた識字教育の大沢敏郎氏などもそうだろう。彼の体は感じとっていた。忘れていた痛みはその場所を通して出会うことができそうだと。

 

彼は、字を教えるということによって、教室にくる生徒たちがそれぞれ忘れることなく持ち続けていた痛みを生徒たちから見せてもらう。生徒たちは彼の忘れていた痛みを自分の痛みとして再現する。そのことによって大沢氏は自分の痛みを取り戻し、他者だけでなく、自分への共感を取り戻すのだ。

 

彼は梅沢さんという生徒の「おっかさーん」という叫び声によって、自分のなかにあった「学校教育」が終わっていったという。彼はもはや識字において書いたものの手直しをしなくなった。「学校教育」という「正しい」あり方、権威にすがる必要がなくなったのは、彼が自分の人間としての痛みを取り戻し、自分への共感を取り戻し、支えられるようになったからだ。

 

人間は自分による自分自身の抑圧という避けられない業をもつ。その抑圧は人が自分の痛みとともに他者の痛みを感じなくなるという抑圧だ。それは人が人でなくなる抑圧だともいえるだろう。

 

その抑圧から回復するためには、人は他者によって傷つけられることを必要とする。もはや抑圧できない痛みを与えられるとき、人はようやく今の自分をやめて、回復に向かおうとしはじめる。

 

さらには抑圧によって感じられなくなった痛みを自覚させてくれるのもまた他者だ。他者が自分のかわりに自分の痛みを苦しんでくれることによって、痛みと共感、赦しは自分に取り戻される。