降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

大沢敏郎『生きなおす、ことば』 痛みを自分のものとしてとりもどすこと

筆者は、横浜寿町で金曜日の18時から21時までの3時間、誰がきてもいい識字教室を作った。フレイレと違い、被抑圧者たちが社会変革を目指すところには焦点を置いていないようだった。

 

題名にもあるように、識字を通して、それぞれの人の止まった時間を流していく、そのありようについて書かれた本なのかと思う。あとがきに記されたように「精神の荒れ野」にいた筆者もここでの出会いと関わりを通して、誰にも必要とされていない存在と思っていた自身を回復させていく。

 

緊張して、みんなのまえに設けられた長机の椅子に座り、読みはじめた。またたく間に涙が溢れ、何度も声を詰まらせ、歯をくいしばりながら読みすすんでいった。そのすがたは、梅沢さんが自分の書いた一つひとつの場面に、聴いている人たちもひきずりこんでいった。

  

ぼくは、五日間、寿町に行って梅沢さんの書いた文章をうけとっていたが、ひとつだけ読みかたのわからないことばがあった。それはお母さんが亡くなっていく場面に書かれていた「おかさんと大きなこえでおもいきりなきました」の”おかさん”だった。それ以前は「母」や「おふくろ」や「おかあさん」などと書かれているのに、ここだけはどう読むのかわからなかったから、この部分をうけとったとき、梅沢さんにどう読むのかを聞こうとしていた。しかし、梅沢さんの描く勢いに圧倒されて、聞けずじまいになっていた。ぼくは、梅沢さんが、そのことばをどう読むのかに、神経を集中させていた。

 

 梅沢さんの涙声が、ピンとはりつめた部屋にひびき、十七枚目のその場面になった。大きく息をすいこんだ梅沢さんは、今、亡くなっていったお母さんを呼びもどそうとするかのように、机から身をのりだしてのぞきこみ、部屋が割れんばかりの大きな声で「おっかさーん」と叫んだ。全身のちからをふりしぼった長い余韻の叫び声だった。

 

不意をつかれ、ぼくは一瞬、何事が起こったのかと思った。ぼくは、胸がどきどきし、「ああ、どう読むのかを聞かなくてよかった」と思った。梅沢さんはお母さんに謝りつづけ、そしてこの叫び声で叫びたかったがために、この二十枚の文章を書いたのだと思った。

 

 

 30分ほどをかけて読み終わった梅沢さんにお礼を言ったものの、ぼくの頭のなかは空白であった。でも、なぜかさわやかだった。なぜ、こんなにさわやかでさっぱりした気持ちになっているのだろうと思った。そして、気づいた。「ああ、これでおれのうけた学校教育は終わったのだ」と思った。

 象徴的に言えば、ぼくのうけた学校教育は、この”おかさん”をみたとき、促音の「っ」や「あ」を入れることだった。梅沢さんの書く勢いに圧倒されていなければ、きっとこのことを言っていたはずだった。その人の生きてきた歴史や、その人が大切にあたためてきたかけがえのないたからものを無惨に踏みにじって、踏みにじったことも自覚せず、素知らぬ顔をしていることができるのが、ぼくのうけた学校教育であった。


 この梅沢さんの”おかさん”の叫び声を機に、ぼくは、寿町の識字では漢字や文章に手をいれることは、いっさいやめることにした。識字だから文字や文章をきちんと教えないとダメだという声を何度も耳にしたが、ぼくには、もうそんなことはどうでもいいことだった。文字の形や文章のすわりぐあいを見たいと思わなくなった。その人のそのままの文字や文章から、こころ深い人間に出会いたいと思うようになった。そうすることによって不都合なことはなにひとつ起こらず、むしろ識字のはばがひろがり、おたがいの出会いやつながりが本質をはずさないゆたかなものとなっていった。


 寿町の識字では、識字の時間の最後に、出席した人が、自分の書いた文章をみんなのまえで読むのであるが、そのときぼくは、一人ひとりの人の読む声や表情や動作を、自分のちからで精一杯うけとめていくことにした。

 

筆者は梅沢さんとの関わりにおいて内面化され、自動化されていた「学校教育」が彼から離れていくのを感じた。

 

強烈な揺り動かし。

そして痛みをもった存在への共感。その共感は自分自身の痛みの発見でもある。

 

抑圧され、無意識になった痛みは、誰かがかわりにそれを痛み苦しんでくれることによって、自分のものとして取り戻される。しがみついていた正しさや強迫は、痛みがとりもどされた時に、それらはもはや悩むべき価値があるものとは感じられなくなる。