降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

8/28 南区DIY読書会   身体性の介在 対話における「行為」の意義について

昨日は南区DIY研究室読書会。


今、リアルタイムで浮上し考えていることを話せて、応答をもらえる場でありがたい。等身大であることと、まだ自分のものになっていない少し先のことを探究することが両立している場だと思う。

 

フレイレは、対話において二つの次元があるという。それは、行為(行動)と省察であるとされる。行為と省察は相互に依存しているもので、行為だけだと盲目的な行動主義に走り、省察だけだと空虚な言葉主義に陥ってしまう。行為と省察は、お互いがお互いの無自覚な欺瞞を消し、削り落としていく。行為と省察は一体的であることが必要だ。

 

フレイレのいう「行為(行動)」がどういうものかもう少し考えてみる。

 

行為・行動というと、これからやることや現在やっていることについてのことであるように受け取ってしまいそうになる。

 

しかし考えてみると、行為という言葉のなかにも、行為の結果がどうだったかということが含まれるだろうと思う。行為は、省察の結果として、何かを想定しつつ行われたはずであり、その想定のもとされた行為の結果がある。

 

だが行為の結果は、省察で予想されていたことを超えているはずだ。結果として様々におこった感覚などはまだ意識化されていない。あらかじめ観念を持っていない体験は把握することが難しい。何かがおこっていることはわかっても、それが何であるかわからない。そしてそれが意識化されないままだと、自意識上は、体験としてなかったことになる。それは別の言葉でいえば学ばれなかったということでもあるだろう。

 

そこに身体性の介在は欠かすことができないものだろう。それこそが自意識が把握していなかった新しい観念を生み出すものだと思う。

 

話しの場で、場のやりとりが深まったところに、ある人が自分でも話すと思っていなかったことを話しだす、といったことがよくある。

 

そもそも自意識が自分が何を話し出すかなど把握しきっているはずもないのだが、それにも関わらず自意識は自分を知っていると確信していて、思わぬことを話しはじめた自分の姿に驚嘆する。そしてその「現実」を認めないわけにはいかなくなる。

 

それまでも自分は自分を知らなかったし、それだけでなく既知の勝手なイメージに自分を押し込めていたということだ。そして「思わぬかたちで話しはじめた」というこの新しい出来事に向き合う時、自分の実際により近づいた新しい観念がつくられる。

 

身体の感性が介在すること抜きに、新しいものを知ることができるだろうか。既に知ったことを使って行われる思考、考えているようで、釘の配置の通りに球が同じパターンの運動を繰り返すだけのパチンコ台のような思考から抜け出ることができるだろうか。

 

身体性が介在した行為を直視することは、既知の思考の無自覚な絶対性、無謬性を破綻させ、思考を以前のままにはさせなくする。対話が「おこる」ということにおいて、行為の意義は、それが物理的にもたらす結果以上に、既知の認識に身体の介在が提示する多様な現実を突きつけ、思考がこれ以上もとのままに収まり続けることをさせなくすることなのだと思う。