降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

フレイレ 超えていくものとしての人間

フレイレの教育的活動においては、単に何かが記憶され蓄積されるかではなく、対話として成り立っているかが必須の条件とされている。フレイレにおける対話は、言葉を用い、人と人が現実の世界を媒介として、共同で探究し、見えなかったものを発見し、認識が更新されること(意識化)によって、抑圧を内在化したまま日常に埋没していた状態を解放していくもの。

 

イメージするに、人と人が世界と自分の関係を間において話しあう時、それぞれの言葉は暗闇に一条の光を投げかけるサーチライトのようなものだろうか。感じ、問いあうことによって、光が往き交い、暗闇に呑まれているものが「発見」される。そこで発見されたものは、わたしのなかで揺るぎない「現実」として立ち上がり、それまで自分がそうだと思っていた世界像を別のものに再編する。

 

対話は、「行為と省察」の持続的続行であるともいえるだろう。「行為と省察」という相反する他者、お互いを問い合う他者を共存させ、両者に妥協のない往還運動をさせることによって世界像は更新され、世界と自分の関係性が変わる。言葉は「行為と省察」の問いあいをそのように共存させているときに磨かれ、世界を変える真の言葉足りうる。教育哲学者林竹二は、学ぶとは何かが吟味され、「真の否定」が行われることだと述べているが、「行為と省察」とはまさに林のいう吟味にあたるのではないかと思われる。

 

フレイレは、人間の本来の存在様式を大文字でSER MAIS(原義:より以上(mais)になる(ser)もの)と呼ぶ。里見はここには「超越」の意味が含まれていると指摘する。フレイレにとって人間の人間たるところは、埋没している今の世界、今の状況を越えていくもの(=世界を変革する)であるところであると思われる。超えられるその世界は、言葉によって作られていた世界であるといえるだろう。なぜなら真の言葉の発見によって見え方が変わり、更新がされるのであるから。

 

里見は、このフレイレの世界像の更新に対する考え方は、ユクスキュルの「環世界」、そして環世界の概念を下敷きにして考えられたシューラーの「世界開在性」によるという。


ユクスキュルは、生き物は自らの周囲の様々な事物にある意味を与えながらそれぞれの個体の世界を構成するとした。そしてクモにはクモ、ハトにはハトの世界がそれぞれあり、そこは決まったものに決まった反応をする閉じた世界(環世界)だとした。シューラーは、ユクスキュルの環世界に閉じ環境に緊縛されている動物と、学習によってその意味を変えられる人間は違うと考え、人間は世界のなかにありながらも、学習によって世界に対して「距離」をとり、「開かれた」仕方でそれに対応するとした。

 

だが人間が世界に本当に開かれていると素朴に考えるのには疑問がある。学習によって変えられる世界とはつまり、言葉によって構成された、いわば仮想現実として世界だと思う。言葉の世界からは出ていないが、言葉が更新されることによって、世界像が変わり、世界との関係性が更新されるのだと思う。だから、更新された世界もまた、つまるところは言葉によって構成された静的なもの、固定され、時間の止まった世界であるだろう。

 

だが、人間が「本当」の世界にではなく、言葉がつくりだす仮想現実の世界のなかに存在し、なおかつそれを「現実」だと思うからこそ、その世界像が更新されることによって、次々と世界を移行し、「別の現実」を生きることができるのだと思う。言葉によって作られた仮想現実の世界にいるからこそ、決められていた世界設定から逸脱することができるのだと思う。

 

ただ、逸脱がおきるためには、見ていた世界が偽りであることを「目撃」し、持っていた世界像が破綻する必要がある。それを導くのが「行為と省察」や吟味という往還運動の結果としての「真の否定」であるのではないかと思う。